「アナロジー」!

小林敏明*1柄谷行人論』では、柄谷行人の思考における「アナロジー」の役割に注目している。


(前略)それ*2を生み出す方法論として柄谷のディスコースの特徴をなしているのがアナロジー、すなわち類比である。穴ロジカル・シンキング(類比的思考)というのは、ふつう思われているようなたんに二つのものを並べて比べてみるだけのものではない。それは抽象作業の第一歩であり、新たな概念の創出および構造の発見である。言い換えれば、抽出される類似点をステップにして新たなアイデアを生み出すための基礎的方法論なのである。そもそも無からの創造などというものはなく、どんなに「新しい」ものも何らかのデータが出発点になっている。つまりクリエイティヴなものとは、データとデータの新しい擦り合わせから生まれ、その擦り合わせ作業においてアナロジーが重要な意味をもっているのである。そのことは最近企業の研究所などでも新薬開発の方法論として注目されるようになってきているが(たとえばUSITなど)、このことをもっともはっきり示しているのは先端の自然科学者たち、とりわけ物理学者たちの作業である。たとえは素粒子論と宇宙物理学というミクロとマクロの両極間のアナロジーはもちろんのこと、そもそも彼らが応用する数学との分野どうしの関係も、ある意味でアナロジーが前提となっていると言えるからだ。そのことは総じて仮説を立てる研究作業などによく見られる。(pp.16-17)
「アナロジー」と「メタファー」;

ここで、ひとつ注意を要するのは、新説発見の方法としてのアナロジーとメタファーとのちがいである。メタファーというのは、すでに一定の意味内容を前提としている。言い換えれば、それはすでに成立している意味に従属している。たとえばAがBのメタファーであるとすれば、それはあくまでBがもっている意味を代行表現しているだけにすぎない。だからそこからはニュアンスのずれとその効果が生まれるとしても、予期せぬ新しい意味が生じてくるということはない。これに対して、アナロジーにおいては原則的に比較される両項に優劣はない。ひとまず両者の意味がそれぞれ前提されるとしても、その結合から何が出てくるかが初めから決まっているわけではない。ちょうど化合によって異なった物質が生まれるように、そこにはAともBとも異なった別の意味が生まれる可能性があるのである。メタファーは安住的であり、アナロジーは冒険的である。
アナロジーとは、もともとギリシア語の ἀναλογίαに発し、「ロゴスに沿って」とか「ロゴスを超えて」の意味をもった言葉である。つまりひとつの事象からそのロゴスにそって別の事象への飛躍をおこない、その類似から共通の何かを析出することである。大事なのはこの「飛躍」である。これがなければ、だれでも思いつくようなありきたりの類似こそ見つかれ、そこに新しい類似性を見出し、それをさらに新しいテーゼやアイデアにまで高めるなど望むべくもない。現在のアナロジカル・シンキングは膨大なコンピューターのエータをベースにおこなわれるが、柄谷の場合は驚異的な読書量と記憶力をベースにして彼個人の直観にもとづいておこなわれる。それはときにアナロジカル・シンキングにつきものの誤推理や過剰推理をもたらすこともありうるが、それがうまく作動した場合はコンピューターには思いつきようもなかった新解釈として実を結ぶことがある。私の見るところ、通説を転倒する柄谷の「反時代的考察」の大半はそのようにして生み出されている。(pp.17-18)