承前*1
吉田秀和と「印象批評」ということで、以下のようなテクストに出会った;
土居豊「吉田秀和と宇野功芳の2人が日本人の音楽受容に与えた影響の大きさ」https://ameblo.jp/takashihara/entry-12453422328.html
抜書きすると、
30年以上前から、吉田秀和を読んでクラシックを聴いてきた。改めて思うのは、吉田秀和と宇野功芳、この2人が日本人の音楽受容に与えた影響の大きさだ。良くも悪くも音楽をロマン主義的にしか聴けない傾向を、日本人に植え付けた。吉田秀和には、現代音楽をどうしても愛せない自分について論考した著作がある。正直で良いのだが、その吉田の姿勢は、日本人の多くの音楽ファンに、現代音楽忌避のお墨付きを与えたように思う。
宇野功芳の場合は、もっと影響力は少ないが、音楽マニアの中に少数だが極端なロマン派偏重の、コアな層を生んだ。
吉田秀和と宇野功芳があまりに人気がありすぎたため、日本人の音楽批評は後期ロマン派的な印象批評が本流?になり、アナリーゼをきちんとやる音楽批評がマスメディアに根付かなかった。
そのせいで、日本の批評には音楽批評がジャンルとして確立されないままだ。主要新聞でも文化欄で音楽批評は寂れている。
音楽批評をマスメディアに書いたり解説したりする需要が乏しいため、音楽を専門に学んだ若い人たちが、ライターになる機会がほとんどない。他の批評分野では若手が育っていく道があるが、クラシック音楽批評やライターは、物書き業としてもマスメディアの解説者としても、成り立たない。書いているのは、いつも定番の人ばかりだ。
ネット時代になっても、クラシック批評だけは、検索しても素人ブログが上位にくる。音楽批評のプロが少ないし、読者からの需要も少ない。
だが、このことは、日本のクラシック音楽のジリ貧状態をまねいた原因の一つだ。批評、論争なきジャンルには発展がないからだ。今や、クラシックの演奏会やCDがメディアに論争を巻き起こすことは、絶えてない。
吉田秀和と宇野功芳*2が同列で論じられるのを見てむっとする人もいるのではないだろうか。多分むっとするであろう古寺多見氏による追討;
吉田秀和や宇野功芳の書いた音楽批評記事は、それこそ印象批評だが、けちょんけちょんに批判する記事も多々あった。一方で、大絶賛する批評もあった。批判と絶賛の両方があるから、読者は彼らを信頼して、演奏会やレコードを買って聴いたのだ。よいしょ記事では、聴き手は信頼できない。
たとえそれが印象批評だとしても、音楽批評家が大絶賛する演奏とこき下ろす演奏には、それなりの基準がある。好みの合う批評家が大絶賛するなら、聴きに行こうと思うことも多いのだ。そもそも音楽批評とは本来そういうものではなかったか。
「宇野功芳死去」https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20160612/1465694850