最後の主体性?

甘井カルア「『夢幻廻廊』考察第一段階~マゾヒズムと社会~」https://amaikahlua.hatenablog.com/entry/2021/05/30/180227


『夢幻廻廊』というゲームに「マゾヒズム」の典型を見出すという話なのだが、私は『夢幻廻廊』について全然知らない。


『夢幻廻廊』の主人公・たろは、色彩を失った灰色の街で、孤独な学生生活を送っていた。たろは自分が生活する空間だけでなく、時間も灰色だと感じている。朝も昼も夜も、昨日も今日も、たろにとっては灰色なのだ。家族と言葉を交わしても生きた実感を得られず、大した苦痛は無いけれども寂しく薄ら寒い日常を、たろは過ごしていた。

そんなたろにも、色彩と生きる実感を与えてくれる場所があった。それは、「お屋敷」だ。お屋敷には主人の環、四人の娘やメイドたちが住んでいた。たろはお屋敷とその住人に鮮烈な色彩を感じ、お屋敷に進んで従属する。たろは過去の記憶を失い、「かとる」と呼ばれる家畜として、お屋敷に奉仕する日々を送ることになる。『夢幻廻廊』は、家畜であるたろの日常を描いた「ペットライフアドベンチャー」である。

マゾヒズム」についての考察。エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』*1が援用される。

エーリッヒ・フロムは『自由からの逃走』で、近代人のマゾヒズムを究明した。フロムによれば、近代人は前個人的社会の絆から自由になったという。前近代的社会の人々は絆によって結び付けられており、その絆は人々を安定させ・かつ束縛していた。近代人は絆から解放されて自由になったものの、人々は孤独で不安になった。孤独で不安な人々は、何か権力のある存在に服従しようとする。自由から逃走し、隷属を希求すること。これがフロムの言うマゾヒズムである。

『夢幻廻廊』のたろは、だれとも共有しないはっきりとした「個」を嫌がる。この「個」というのが何を意味しているのかは、もう簡単にわかるだろう。日本が近代化を推し進めることによってもたらされた個人的社会の「個」、それがたろが逃走しようとする「個」なのだ。

『夢幻廻廊』でたろが隷属するお屋敷は、前近代的封建社会の象徴だと私は解釈している。お屋敷では主人やお嬢様、メイドのような役割が決められており、住人がその役割を上手く演じることが期待されている。このシステムは、武士や農民のような身分が決められていた封建時代を想起させる。武士は武士らしい役割を演じ、農民は農民らしい役割を演じ、お上に従う前近代的封建社会のようなシステムで『夢幻廻廊』のお屋敷は運営されているというのが私の考えである。

『夢幻廻廊』のお屋敷は「前近代的封建社会」の象徴である一方、お屋敷の外の灰色の世界は「共同性が崩壊した近代以後の社会」の象徴だと解釈できるだろう。フロムの『自由からの逃走』には共同性が崩壊した近代社会について書いてあるし、宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』*2には団地化によって日本社会の共同性が崩壊したことについて書いてある。共同性が無い社会も、社会学の研究対象になる一端の〈社会〉だと呼んでいいだろうと思う。たろが身を置いた灰色の世界は、共同性が崩壊した社会の薄ら寒さを象徴しているわけだ。
たしかに、「マゾヒズム」というのは(フロムが言うように)「重荷としての、自己をとりのぞくことによって、再び安定感をえようとする」「一つの方法」であると言えるだろう。しかし、私たちはその「 マゾヒズム」にこそ、かなり強靭な〈遺志(will)〉或いは主体性の働きを看取することができる。フロムの論述からも窺われるように、マゾはたんなる無力で無垢な被害者ではない。「マゾヒズム」の悦楽的境地というのはあくまでも「自己をとりのぞく」という主体的(能動的)な遺志と努力の末に達成されるべきものだ。被虐的な状況はマゾヒストによって主体的(能動的)に選び取られ・達成されたものだといえる。さらにいえば、「自己」は取り除かれるどころか、虐げられ・苦しむ私を感じて悦ぶ私……という仕方で、幾重にも重なったメタ・レヴェルにおいて、より強固な「自己」として保存されるわけだ。
封建社会」とはたしかに社会の各パートの「役割」がタイトに定められた社会だといえるだろう。謂わば、『カムカムエヴリバディ』*3の「条映映画村」みたいなものだ。特権者が下層階級を一方的に抑圧したり・虐待したりしているわけではない。一見そのように見えても、シナリオや演出に沿って、「役割」を遂行しているだけなのだ。「武士は武士らしい役割を演じ、農民は農民らしい役割を演じ」ているが、(「農民」と同様に)「武士」は「武士らしい役割」から逃れられない。「破天荒将軍」のように「将軍」から逃避したくなる人が出るのも不思議ではない。また、単なる一方的な抑圧とか虐待としか感じられなくなったら、「封建社会」というドラマはその時点で終了ということになってしまう。
封建社会」における各身分の「役割」演技は一方的な抑圧や虐待ではない。しかし、他方で、そこで常にマゾヒスティック/サディスティックな悦楽が生起しているわけでもないし、演技をしているという自覚もないだろう。それは、たんなるベタな日常なのである。「大した苦痛は無いけれども寂しく薄ら寒い日常」に近いといえるかも知れない。
さて、「異端(heresy)」の語源は選ばれたものという意味である。かつてピーター・バーガーはThe Heretical Imperative(『異端という当為』)*4において、プロテスタンティズムを典型とする近代以降の宗教は、信者によって主体的(主観的)に選択されたものであり、その意味で今や誰もが「異端」なのだと論じた。主体的(主観的)に選択されたものである以上、当の宗教のリアリティ(神や救いの客観的実在性)は常に主体的(主観的)に選択された限りでの、という仕方で限定されてしまう。信じれば信じるほど、神や救済から遠のいてしまうというパラドクス。「マゾヒズム」の場合も同様なパラドクスを抱えているといえるだろう*5。どちらも、その先には最も困難なアポリアがある。「自己」の「自己」への隷属(幽閉)。