〈終わりなき日常〉再び?

 内田樹「意地悪化する社会」http://www.nikkei.co.jp/kansai/elderly/37642.html


曰く、


最近『論座』が若年の貧困層の特集をしていた。その中で若いフリーターが「戦争待望」の心情を記していた。非正規雇用の身として「一方的にイジメ抜かれている私たち」にとって、戦争とは強者も弱者も分け隔てなく苦しめる点で究極の平等機会ではないのかというのである。「社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲(あざ)笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は『国民全員が苦しみ続ける平等』を望み、それを選択することに躊躇(ちゅうちょ)しないだろう」と彼は結論している(赤木智弘、「『丸山眞男』をひっぱたきたい」)。

 ここでは「戦争」という強い言葉が使われているが、これを「いじめ」と置き換えても意味は変わらない。「自分は被害者である」という前提から出発する人間が、「すべての人が被害者になる社会」においてフェアネスが実現されるという考えに同意するのはことの条理である。「いじめ」において子どもたちは決して「正義の味方」は到来しないという冷酷な現実を痛感した。子どもたちは「正義」という概念に唾を吐きかけ、自分自身を「邪悪なもの」に塗り替えることによって、「邪悪なもの」への恐怖を打ち消し、「全員が被害者で、かつ全員が加害者」というフェアネスを選んだ。

先ず、かつて〈オウム真理教事件〉への応答として書かれた宮台真司氏の『終わりなき日常を生きろ』を思い出した。また、1995年は地下鉄サリン事件の年であるとともに阪神大震災の年でもあったが、例えばアウエハントの『鯰絵』や気谷誠の『鯰絵新考』で論じられたような、祝祭としての災害、ユートピアとしての災害というテーマとも関連している。
鯰絵(普及版)―民俗的想像力の世界

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鯰絵新考―災害のコスモロジー (1984年) (ふるさと文庫)

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しかしながら、戦争であれ災害であれハルマゲドンであれ、「強者も弱者も分け隔てなく苦しめる」「究極の平等機会」の到来を待ち望むのと「自分自身を「邪悪なもの」に塗り替えること」、つまり積極的に〈悪〉を行うことの間には決定的といっていい差異が横たわっているのではないだろうか。「到来を待ち望む」ことは徹底的に受動的であり、到来させるのは鯰にせよ神にせよ超越的な存在者である。それに対して、ある種のテロリストやかつてのオウム真理教の場合は〈ハルマゲドン〉的な状況を自ら積極的につくり出そうとする。とはいっても、世界をちゃらにしたいという欲望は共通しているといえよう*1。アウエハントが考察したような伝統社会をベースとした民衆的想像力における祝祭としての災害、これに笠松宏至氏が考察した中世民衆の徳政令を巡る心性を付け加えてもいいかも知れないが、これらと近代的な(宗教的・世俗的な)〈ハルマゲドン〉願望との間にも、受動/能動という対立よりも重要な差異がある。多分、それは一旦はちゃらになっても世界が若返りながら再度継続していくという〈永遠回帰〉への信頼の有無なのではないかと思われる。或いは世界への配慮の有無。
徳政令――中世の法と慣習 (岩波新書)

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何れにしても、内田氏のこの短いテクストはhttp://d.hatena.ne.jp/inumash/20070124/p1http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070127/1169860485との関連でも興味深いテクストではある。だからこそ、喜納昌吉氏には頑張ってほしいと思うのだ。全ての武器を楽器に!

なお、祝祭としての災害ということだと、相米慎二の『台風クラブ』は必見。

台風クラブ [DVD]

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*1:これは多くの人が指摘しているように、かつての小泉内閣とか新自由主義に対する共感や支持にも通底しているといえよう。