関東社会学会

 6月18日は、関東社会学会@立教大学へ行った。主な目的は、『年報社会科学基礎論研究』の頒布のお手伝いと、基礎研の7月シンポジウムのフライヤーを播くことである。正式な参加者数がどれほどのものになったのかというのは知らないのだが、印象としては、池袋駅から徒歩数分という地の利に恵まれた会場にしては、人数が少ないなと思った。昨年の駅から車に乗ってトンネルを越えてゆかなければならなかった専修大学と比べても少ないのではないか。
 では、学会の報告の方はどうだったのかといえば、上野千鶴子さんが司会をして、吉田民人氏がトリを務めた「第1部会:理論(1)」はほぼ満杯だったようだし、大谷栄一氏が司会をした「第6部会:宗教・社会運動」もかなり盛り上がったようだ。しかし、私がお邪魔をしたのは、「第2部会:理論(2)」。人数においてはたしかに淋しかったのだが、先ずは矢田部圭介氏の達人的な司会術に言及しておくべきだろう。私がフルで聴いたのは、小川祐喜子さんの「C・H・クーリーの「自己感情」と自我の社会性」、松元一明氏の「バーガー弁証法における「客体化」と「内在化」の再考」。それから最後の総括討論に参加させていただいた。
 小川さんの報告を聴いて思ったのは、クーリーには、(例えばミードにおけるような)「一般化された他者」概念がない。そのため、「自己」発生の説明がギクシャクしているというか、どうしてもそこに〈空白〉があるように感じてしまうのだ。小川さんのレジュメから引用してみよう。曰く、


玩具を奪われた子どもが、それを「ボクのもの」「ワタシのもの」と発することは、子どもの自己主張の表われである。子どもは、他者が何らかの反応を行なうことによって、「ボクのもの」等の人称代名詞の使用方法やその言語に含まれている意味を理解していくようになる。玩具を奪われ「ワタシのもの」と発することは、それを所有したいという子どもの欲求の表われである(p.3)。

 この何かを所有したいという行為とは、「自己所有化」(self-appropriation)行為である。子どもが、自分のものを取られ、「ワタシのもの」と発しながら他者に反抗することが「自己所有化」行為である(ibid.)。

 クーリーによると、「ワレ」意識は2歳頃にならないと表われてこない。その見解は、人称代名詞の習得と関係している。人称代名詞が習得されるということは、自分を表する言語を身につけることである。クーリーは、子どもの観察において人称代名詞を習得していく過程で「自己感情」が生じていることを見出した。「自己感情」は、他者とのコミュニケーションといった外部世界を通じて作られた産物であり、内的経験である。したがって、「自己感情」は他者との産物といった意味で社会性を有するものとなる(pp.3-4)。
思わず長文の引用となってしまって恐縮だけど、クーリー(というか小川さんによって解釈されたクーリー)の理路に〈空白〉というか〈ワープ〉があることは感じ取っていただけると思う。つまり、幼児が「玩具」を取られて駄々をこねることと「人称代名詞」の使用をマスターし、何物かを「所有」することができる「自己」が成立することの間に何かあるんじゃないの、ということである。自分のものを取られて駄々をこねるというのは人間だけでなくて、犬や猫にだってある。だけど、犬や猫が「所有」しているというのはメタファー以上のものではないだろう。何よりも「所有」というのは〈法〉に関わる事柄なのである
*1。また、appropriationが「所有」と訳されているが、通常「所有」はposessionだろう。「玩具」を取られた幼児に戻ってみると、幼児の駄々は「玩具」の使用(享受)に関わっており、「玩具」とともにある〈時間〉が掻き乱されたことに起因していると思われる。ところで、「所有」というのは、使用(享受)と切り離されたところで、尚且つ〈俺のもの〉という私への帰属関係が続いていることをいうのだと思う。こうした使用(享受)とは切り離された「所有」が成立していなければ〈レンタル〉ということは存立し得ない。こうした直接の使用(享受)から切り離された「所有」が成立するためには、「一般化された他者」(ラカン風にいう「父」でも構わないけど)の介在が不可欠かと思うのだけど、如何だろうか。また、「人称代名詞」をマスターするためには、

  あなたにとって私はあなた

という〈立場の互換性〉が先ず成立していなければならないけど、それだけではなく、「私」という言葉はこの世のあらゆる人が使っていること、つまり私はそうした「私」たちのひとりにすぎないということが承認されなければならない筈だ。
 松元氏の報告はバーガーの「弁証法」が特に『聖なる天蓋』においては、「客観的現実にたいする主体は受動的なものとして描かれている」こと、「主体にとって所与のものである客観的現実が動かし難い事実として強調され、弁証法的過程が静態的な姿へと変化している」こと(p.1)を批判し、主体の能動性を恢復するための修正を提案するというものである。私が申し上げたのは、『天蓋』の後半部の〈世俗化論〉では寧ろ十全な物象化の困難若しくは不可能性が論じられているのであり、それが全面的に展開されるのは後のThe Heretical Imperativeにおいてではないかということ。また、バーガーの諸テクストにおいて頻出する"signal of transcendence”という言葉を鑑みるならば、社会の変動は主体の能動性/受動性を超えて、直接相互行為からもたらされるというよりも、〈超越〉の出現によって〈外部〉的にもたらされるという可能性が読み取れるのではないかということだった。後者については、発言はしなかったのだが、バーガーの初期のテクストでは、『社会学への招待』辺りまででは、サルトルカミュといった仏蘭西実存主義者の影響が顕著だったけれども、サルトルなどへの言及は『天蓋』辺りを境に後退してしまう。バーガーにとっっての〈超越〉については、如何にしてサルトルを呼び戻すのかということが重要になるのではないか。バーガーにとっての〈超越〉というのは、ルーティン化された日常世界の裂開として現れる*2。また、サルトルにとって、〈超越〉とは第一義的に私を眼差す他者であり、そこには取り立てて有神論的な含意はない。私がいいたいのは、〈超越〉というのは、日常的な相互行為の直中に(少なくとも「象し」としては)出現する可能性があるということなのであり、そこから現象学的な伝統における例えばレヴィナスの思考に接続する可能性も出てくるのではないかということである*3
 以上、無責任だとは思うが、ご報告を聴きつつ、触発されて考えた事どもである。
 ところで、矢田部圭介氏から

  「親密性と汝指向−−シュッツの〈形式的な概念〉が示唆すること−−」
  『ソシオロジスト』7、2005

を頂戴しました。記して感謝いたします。
 夜は張江洋直氏、大谷栄一氏と池袋北口の「土風炉」で飲む。

*1:「承認」の形式としての「法」は、佐藤直樹氏の報告「「参加の平等」と「連帯」−−フレイザーとホネットの社会理論について−−」にて言及されている。

*2:「神」が直接的に現前するというのはプロテスタント神学上不可能である。だからこそ、あくまでもsignal of transcendenceということになる。

*3:これはさらに検証する必要があるのだが、〈他者の超越〉という論点に関しては、サルトルレヴィナスは意外と近い位置にいるのではないだろうか。また、レヴィナスの近傍にはデリダがいることになる。