「共同体主義」?

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20101014/p1


これはhttp://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-programhttp://mojix.org/2010/10/14/left-and-rightに対する反論として書かれているのだけれども、「ナチス躍進はその社会主義政策が国民に受けたからというわけでは必ずしもな」く、「ナチスの特徴とは、どのような階層かに関らず幅広く票を集める、いわばワイマール期唯一の国民政党であったこと」であり、「1920年代における社会の急速な大衆化、そして1929年の大恐慌。その中で従来の政党では回収できなくなった人びとを、ナチスは吸収していったのです」ということはその通りなのだろうと思う。まあ最新の歴史研究を参照しなくとも、既にエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』*1ではナチス擡頭の背景には中産階級の危機意識や不安があったことが指摘されている。「ナチスの「国家社会主義」とはすなわち「民族共同体主義」であって、民族一丸となって強力な共同体を築いていこうとするもの」というのもそうだろう。また、


同時にこれは、ドイツにおける資本主義の伝統に即したものでもありました。ドイツは資本主義形成が英仏に比べ遅れたということもあって、国家主導の資本主義化が行われました。国家が労使を仲介し、国家、資本家、労働者が一体となった経済をつくりあげていったのです。このようなあり方は独占金融資本の成立とともに帝国主義へと進んで行きますが、一方で、たとえば労働者の経営参画など、現代ドイツの福祉国家の特徴である社会市場経済にも引き継がれる伝統でもあります。このような共同体主義(コーポラティズム)的な資本主義の伝統があったからゆえに、資本家やお金持ちも、安心してナチスを支持できたのでした。「国家社会主義」とは現状における社会格差を引っくり返そうとするものではないからです。
という指摘にも肯ける。ただ、「民族一丸となって強力な共同体を築いていこう」というのはナチズムの定義としてどうなのか。これはナショナリズムであって、多かれ少なかれナショナリストはこう考えているのではないか。良いナショナリズムというのは丸い四角と同じだと考えてはいるが、だからといって全てのナショナリストファシストと同一視して断罪するつもりはない。やはり、通常のナショナリズムに〈ウルトラ〉が付く閾値というものがある筈だ。
自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

さて、ブクマ・コメントを見て面白かったのは、ここで使われている「共同体主義」という言葉から、ここでは「コーポラティズム」という但し書きがあるにも拘らず、コミュニタリアニズムを連想したものがあったことだ*2。まあ、「コーポラティズム」を「共同体主義」と訳すことには俺も馴染みがないのだが。ただ、その他のナショナリズムと同様にナチズムが無機的なゲゼルシャフトとしてのstateではなく、有機的なゲマインシャフトとしてのnationを(過度に)強調したのも事実。そこから言えば、「コーポラティズム」に社会有機体論を重ねてみたくなる。「コーポラティズム」を(語源に遡って)直訳すれば身体主義になるのだから。
ブクマ・コメントに、

Midas 「民族だから左じゃない」は幼稚な誤り。ドイツは統一が遅れ各領邦は実質的に別々の国。概念『民族』が空虚だったからこそ『国家』として人々を束ねれた。EUと同じ。第三帝国はむしろインターナショナリズムに近い 2010/10/1
http://b.hatena.ne.jp/Midas/20101014#bookmark-25672086
これはちょっとわかりにくい。国民国家(nation-state)というけど、例えば仏蘭西の場合はブルボン朝や大革命を通じて中央集権的な統一国家(state/etat)が構築され、その後人民にnationたることを如何に押し付けるのかということが問題になった。独逸の方は逆に(上で述べられているように)「統一が遅れ各領邦は実質的に別々の国」だった、つまり統一的なstate/Statは構築されず、観念としての国民(或いは想像の共同体としての国民)が先行し、一人歩きした。フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』*3でアジったときにはそれに相応する独逸国家というのは存在しなかったわけだ。だから、「概念『民族』が空虚だったからこそ『国家』として人々を束ねれた」というのは逆じゃなかろうか。
ドイツ国民に告ぐ (岩波文庫)

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http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20101014/p1に戻ると、その欠点は元のhttp://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-programなどが提起している「強制」の是非という問題に答えようとしていないことだ。
また、http://mojix.org/2010/10/11/national-socialist-programに突っ込んでみると、多くのリバタリアンに対して常々疑問に思っているのだが、企業、とりわけ(マルクス主義で謂うところの帝国主義段階移行の)巨大組織と化した企業(組織)に対する認識が甘いのではないかということだ*4

民間人は「ゲームプレイヤー」であり、政府は「ゲームデザイナー」である。企業や民間人は、政府のような「強制」力を一切持っていないのだから、社会問題になるような「構造」問題に対しては、企業や民間人には責任が生じようがない。これは「システム」の問題なのであり、よって責任があるのはもっぱら、「強制」力によって制度設計をおこなった政府である。それなのに、民間の企業を「ワルモノ」扱いして、その行動をさらに規制すれば問題が解決すると考えているのだから、まるで逆だ。セーフティネットは必要だが、市場を規制してもセーフティネットにはならない。
時にはせこい政府以上の財政力を有することもある「企業」と個人を単純に並列していいものなのか。また、たしかに「企業」は法的(形式的)な強制力は有していないかも知れない。しかし、実質的な強制力は可能なのではないだろうか。何しろ金権を有しているわけだし。それから、「民間人は「ゲームプレイヤー」であり、政府は「ゲームデザイナー」である」という表現もどうかなと思う。これだと、「ゲーム」のルールやプロットを「政府」が勝手に決めて、「プレイヤー」たる「民間人」はそれに諾々と従うしかないみたいではないか。そうではないだろう。「ゲーム」のルールやプロットが決まるに際しては、少なくとも民主制国家においては、「民間人」も選挙における支持/不支持とかロビー活動とかデモとかを通じて影響を与えている筈なのだ。