と書いている。これを読んで或る種の懐かしさを覚えたのは、かなり以前の「宗教と社会」学会で熊田一雄氏が「幸福の科学」を主要なネタとして〈選択的輪廻観〉ということについて報告していたことを思い出したからだ。それによれば、この世に例えば障碍者等々の不利な立場で生まれた人というのは出生前に現世を自らの霊的なアップグレイドのための修行の場として、自ら不利な立場、辛い人生を選択して生まれたのだから、そういう人たちに同情したりするのは不必要であるばかりではなく、却ってその人たちの修行の妨げになるというものだった。上に引用したエントリーで、師さんは香山リカなどを援用して、所謂スピリチュアリティと「個人主義的傾向」、さらには「下流」の問題に結びつけている。しかし、熊田氏のそのときの報告では、そのような輪廻観は先進国とか中上流階級(昨今の流行語では勝ち組)といった属性と親和性があり、それは第三世界といった属性と親和性を持つ終末論的宗教と対立するということだった。このときはまだ出版されていなかったし、熊田さんは宮台真司が嫌いだと思ったが、所謂「終わりなき日常」とその「日常」が終わらないことに耐えられない者という構図である*1。
それはともかく江原氏の輪廻観である。江原氏的輪廻観において注目されるのは、人の現在の境遇は生まれる前の「たましい」時代の自己決定によるものである、という主張である。「たましい」にとって現世は修行の場であるから、厳しい修行を行いたいと思った「たましい」は、苦労をしそうな母親を自ら選び、現世に生まれるという。たとえ生まれ出た瞬間に便器に落ちたとしても、「赤ちゃんがその母親のお腹に宿ると決めた時から、たとえ短い時間であっても、そのたましいとしての学びはちゃんとある」(p. 210)という。死後、たましいは霊界へ戻って類魂(グループ・ソウル)と交じり合い、現世での経験は類魂(グループ・ソウル)で共有され、霊界全体の英知となるという。そして再び生まれるときは、類魂(グループ・ソウル)から離れ、自己決定で親を選ぶのである。
http://d.hatena.ne.jp/moroshigeki/20070627/1182964027
終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル (ちくま文庫)
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師さんは江原啓之氏にコメントするに際して、「本覚思想」、また手塚治虫の『火の鳥』などを参照しているのだが、ここでもう一つ思い起こさなければいけないテクストがあろう。それは日本の新宗教研究において既に古典的な論文となった、対馬路人、西山茂、島薗進、白水寛子「新宗教における生命主義的救済観」(『思想』665、1979)。ここで(新宗教以前の民俗宗教等への言及も絡めながら)日本の様々な新宗教にほぼ共通する「救済観」として言われているのは、「根源的生命との和合による生命充実感」(p.107)ということである。とすると、新宗教というのは「本覚思想」の近代日本的展開という側面を有することになるのか。また、師さんの解釈に従う限り、最新流行のスピリチュアリティにも(表面的な意匠や組織形態は異なるにせよ)「生命主義的救済観」は生き続けているということになる。