橘玲*1「ぼくたちが望んだ無縁社会」http://news.livedoor.com/article/detail/5307964/
宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』の書評。この本は買ってはあるが*2、まだ読んでいない。だから、書評の仕方の是非を論ずるということはしない。橘玲のコメントに対するコメントということになる。
- 作者: 宇野重規
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2010/04/21
- メディア: 新書
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先ず「政治空間」=「共同体」というのはどうよと自称ハンナ・アレントの甥っ子としては思う。それはさて措き、「共同体」か「裸の個人」かという問題の立て方に疑問を感じる。その間に何かあるだろう。或いは、「近代」の真の問題はそこではないだろう。そういう感じがする。ピーター・バーガー先生はThe Heretical Imperative*4において、近代の宗教状況を一言で「異端の普遍化(the universalization of heresy)」と言っている(Chapter1 “Modernity as the Universalization of Heresy”)。”The English word “heresy” comes from the Greek verb, hairein, which means to “to choose.””(p.24)というように、「異端」とは〈選択された立場〉ということなのだ。前近代人にとって「異端」を信じることは「可能性」の問題であったが、近代人にとっては、どの宗教(世界観)を信じるにせよ、それは自らが選択した信仰である(p.25)。この意味で、近代というのは〈誰もが異端である時代〉ということになる。バーガー先生はここを起点にして、近代における信仰の困難性と可能性を論じていくのだが、勿論これは宗教に限ったことではない;
私の理解では、伝統的な政治空間(共同体)はグローバルな貨幣空間に侵食され、「家族」という最小の共同体まで解体されていく(家族が失われれば、あとは裸の個人が残っているだけだ)。その先にあるのは、砂粒のようなばらばらの個人が電脳空間でつながるまったく新しい社会空間かもしれない。これは薔薇色ではないかもしれないが、かといって暗鬱な未来というわけでもないだろう。ただひとつわかっていることは、私たちはこの新しい世界で生きていくほかはない、ということだ。
血縁、地縁、その他あらゆる〈縁〉は「一組の選択」の対象/帰結となる。つまり、近代において、縁を結ぶこと、縁をメンテナンスすること、縁が崩壊することは、個人の自己選択・自己責任の問題に回付されることになる。突き放して言えば、「無縁」になるのもあんたの自己責任による「選択」の帰結でしょということになる。また、私たちは以前のように無自覚的に〈縁〉に束縛されたり・安住したりすることはできなくなる*5。〈縁〉は意識的に種々の儀礼的実践によって日々更新していくべきものになった。恋人関係や夫婦関係では(例えば)朝晩kiss & hugをしてその都度関係を再確認していくとか。所謂近代家族においては結婚記念日、お誕生日、家族旅行といった〈家族のイヴェント〉が以前にもまして重要になっている筈である。それは家族という縁(血縁)を確認し・更新する儀礼であるからだ*6。
What previously was fate now becomes a set of choices. Or: Destiny is transformed into decision. (p.15)
Heretical Imperative: Contemporary Possibilities of Religious Affirmation
- 作者: Peter L. Berger
- 出版社/メーカー: Doubleday
- 発売日: 1980/06/01
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*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110103/1294080150
*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100518/1274146122
*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100205/1265388202
*4:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050619 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101209/1291915158 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101222/1293036848
*5:魯迅がいう意味での「乱世」だ! See 井波律子『酒池肉林』
*6:井上俊編『地域文化の社会学』に収められた上野千鶴子の論攷でたしかこの辺の事情が考察されていた筈。また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110206/1296966968で言及した若林幹夫『郊外の社会学』第5章での議論も参照のこと。