わけありはない(みんなわけあり)

小野不由美の『残穢』という小説を紹介するnesskoさんのエントリーを読んで*1、所謂「事故物件」について、数年前に以下のようなことを書き綴ったことを思い出した;


さて、世間の「事故物件」言説についてはけっこう違和感を持っている。勿論、自らの資産価値をがた落ちにされたオーナーは同情されて、当然だろう。その一方で、世を騒がせた重大事件の現場は〈史跡〉として公的な保護を受けるべきなのでは? 京都の「寺田屋」や「池田屋」は史跡である以前に「事故物件」であるわけでしょ? それから、歴史ということでは、例えば広島や長崎は街ごとひっくるめて「事故物件」ということになるのでは? 東京だって、東京大空襲の時は東京中の空き地が遺体の仮埋葬所となったわけだ。「事故物件」言説というのは、直近の小さな自殺事件や殺人事件を強調することによって、歴史的存在としての都市が抱えている(現在にとって都合がいいとは限らない)過去の歴史の記憶を抑圧する効果はないのか。
まあ、問題は〈穢れ〉なので、神主がお祓いをすればいいんじゃないかとは思う。また、〈信者〉であることの困難。日蓮宗系の法華経の行者ならば、南無妙法蓮華経のお題目さえ唱えれば、何も怖れることはない、どんな悪霊も手出しできないと確信している筈だ。クリスチャンも神への信仰によって、悪霊的なものから保護されているという確信を持っている筈だ。勿論、高等な宗教だけじゃなくて、「小沢信者」や共産党員でもそうだろう。「事故物件」なんか気にしないよという人の中には〈強い信仰〉を持っている人が多いのでは? その一方で、近代社会においては、そのような〈強い信仰〉の維持は構造的な困難を抱えている(Cf. eg. Peter L. Berger The Heretical Imperative)。
Heretical Imperative: Contemporary Possibilities of Religious Affirmation

Heretical Imperative: Contemporary Possibilities of Religious Affirmation


https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20171106/1509897202
なお、nesskoさんは

この本の主人公の「私」は九州育ちで京都在住ということですが、農村部にはなじみが薄いようで、田畑が広がっている光景は「何もない」ように見えるらしいのですが、農村にも代々人が住んでいるので過去もあり因縁もありますし、それを言い出したらアメリカ大陸もヨーロッパ人には新大陸だったかもしれませんが先住民がいましたので、アメリカには先住民由来の怪談があり、もっというと、人跡未踏だった地域に人が入っていくと、人がいないことで安定していたその地域はかき乱されて、そのせいで生きづらくなったものの負荷が新型ウィルスのような形で人にはねかえってきます。
これは、観察者(観察行為)が観察対象に如何なる影響を与えることのない純粋な観察は可能かという科学方法論的問題に関連している。