対幻想の破綻?

今日山夕子「共同幻想からの解放とありのままの他者の受容ーーードライブ・マイ・カー」https://kyoyamayuko.hatenablog.com/entry/2022/04/15/162115


濱田竜介の『ドライブ・マイ・カー』*1を巡って。


夫婦だからこそわかりあえるはずだ

愛し合っているからこそわかりあえるはずだ

それが共同幻想でしょう。

音も夫は愛していたのだから「共同」幻想としては成立します。

でも、その共同幻想からはみ出してしまう「私」がいた。

音ははみだして浮気を繰り返してしまう。

家福はそんな音を見逃し知らないふりをして必死に共同幻想を守ろうとする。

でも、それはありのままの音を見ていないことになる。

みさきは、夫婦関係よりもっと強固な「共同幻想」のある「親子関係」を捨てた女だ。

みさきに言われてようやく気づくのだ。

共同幻想を通した音ではなく、ありのままの音を受け入れることができた。

共同幻想から出てきたのは他者としての音だ。

ありのままの音を受け入れるということはそのくらい難しいことだった。

共同幻想はそのくらい男性にとって強固なものなのだろう。

ドライブ・マイ・カーは、近代的自我をもち自己コントロール能力の高い男が、

ありのままの他者としての妻を受容できなかったことで妻を失う物語だっだ。

思いのたけを音にそのままぶつけていたら。

関係は変わったとしても、死ぬことはなかったかもしれない。

妻を殺してしまうほど変化を求めない男の末路だ。

自己コントロール能力が高い、一貫性のある男の破綻の末路。

吉本隆明の『共同幻想論*2の枠組みでは、「共同幻想」はムラとかクニといった水準で生成する「幻想」であり、こういうペアの関係において生成するのは「対幻想」ということになる。