鶏など

承前*1

先ずはコメントに御礼;


慧遠(EON) 2009/09/28 10:04
大室幹雄には、この本と関連する著作『正名と狂言 ― 古代中国知識人の言語世界』(せりか書房)があり、都市の喧騒のなかから躍り出た、孔子孟子等のことば人間たちの、始皇帝武帝との権力をめぐる争いを、「名を正す」と「言を狂す」という両端から解釈していましたので、こちらも是非参考にしてください。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090922/1253594813#c1254099873
『正名と狂言』は『滑稽』の中でも屡々参照されていますね。「正名」*2については、井筒俊彦先生が儒家の言語論は東洋思想において特異なものだということを指摘しています(例えば「文化と言語アラヤ識」[in 『現代文明の危機と時代の精神』]。また、『意識と本質』を参照のこと)。また、「孔子孟子等のことば人間たち」の「ことば」は何よりも身体的なもの、パフォーマンスであったことは明記しなければならないでしょう。『滑稽』の付論「雞鳴考」から引用;

(前略)孔子の学団が提唱し実践した「礼」とは抽象的な空論でも形而上学めかした教義でもなく、文質あわせ具備してあるべき「君子」人の行為の文法、宮廷、官庁、戦場、祭場、学校、家庭等々万般の生活空間において上流人士の起居飲食の振舞い全体を、大は宇宙の原理に、中は社会の道徳に、小は家庭内の作法に整然と秩序づけるための身体の文法、それに準拠すれば宇宙と社会と個人とが融合して活動すると期待されたところの行為のコード体系であった。子路は身体と行為の人間であった。それを洞察して、精神とことばによってではなく、「礼を設けて」彼を少しずつ誘惑した孔子がそのしたたかな狡知において優秀な教師であったのか否かは詮索せずともよかろう。(p.353)*3
現代文明の危機と時代の精神 (1984年)

現代文明の危機と時代の精神 (1984年)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

さて、『滑稽』では、「道化」と「鳥」、特に「雄鶏」とのシンボリックな結びつきが言及され(pp.266-267)、「雞鳴狗盗の故事」が参照されている(pp.267-268)。付論の「雞鳴考」はそれに焦点を絞ったもの。曰く、

民俗的シンボリズムにおいて雄雞は一般に見栄坊で好色で愚鈍といった意味を負荷されており、だから雄鶏の羽毛は道化の標章として採用されるのだとW・ウィルフォードは述べている。古い農耕の豊穣儀礼では道化とともに雄雞もまた重要な役割を演ずる。というのも両者はともに生命力そのものであり、道化はその巨大なファルロスにおいて、雄雞はその騒がしい好色と雞冠において、大地あるいは世界の生命力と同定されるからである。しかも神話的シンボリズムにあって雄雞はすぐれて存在論的な意味を担っている。「雞は将旦を知り、鶴は夜半を知る」と『淮南子』説山訓の断片は述べているけれど、夜明けを告知する雄雞のときは闇の中へ明るみをもたらす、即ち、夜にかわって昼を、陰にかわって陽を喚起する、恐怖と混乱の中へ明晰な秩序を導き入れ、渾沌を世界へと転化する存在論的な開示である。道化たち雞の羽毛を身に纏うことによって雞の有する神話的シンボリズムの宇宙論的意味を帯電し、そのミミクリーの端々のすべてによって雄雞と存在の深層において一体化している。ゆえに道化は意識の底に潜む始原的な無意識を表現し、日常の明るい昼の意識の中に夜の根源的な渾沌の意識をもちこむ。疑いもなく、狗盗の同輩たる雞鳴の名人もその雄雞を服装と仕草とにおいて模倣する異形のいかがわしさによって、彼が日常の自明性を越えた神話的宇宙論的存在であることを具象化していた。(pp.356-357)
現代漢語においても、鶏巴は陰茎を意味する*4。さて、類である「鳥」と種である「雞」との関係は?

ウラジミール・プロップの言及をまつまでもなく鳥は死者の魂の運搬者である。中国においても鳥は死者のプシコポンポスであり、ときに神々の伴侶、神々の化身、神なるものの顕現、そしてときに死者の霊魂そのものでもある。だから神々の祭祀や死者の葬礼や神々の天上界を描き出す画像に聖なるものの同伴者として鳥たちが軽やかに舞っていたとしても何の不思議もない。彼らはその軽快な飛翔によって陰と陽、彼岸と此岸、天上界と地上界、夜と昼との境界を撥無して自在に往来することができる神話的な宇宙論的存在である。そういう鳥たちのうちで雄雞は彼の雞鳴によって特異な位置を占めている。『述異記』下の「天雞」の神話を読もう。「東南に桃都山有り。上に大樹有り、桃都枝と名づけ、相去ること三千里、上に天雞有り、日 初めて出でて此の木を照らせば、天雞 即ち鳴き、天下の雞 皆随いて之に鳴く」――世界の中心に聳える宇宙山の頂上に天空と大地とを結合して地軸を貫き三泉に根ざす世界樹の巓に、太陽の最初の火矢の放射と同時にときを鳴く「天の雞」のイメージ、ここに雄雞の具有する神話的イメージの全体が表現されている。それは世界を蔽う暗黒に昼を呼びもどし、そうすることによって夜の訪れごとに渾沌に逆転してしまう世界に夜と昼との境界にあって新たな秩序を回復させるのである。――そして中国の民俗でも夜は妖怪変化の跳梁する渾沌の時間であり、彼らは夜の引き明けとともにおおむね退散するけれど、それを告知するのは雞鳴にほかならない。のみならず雞は人の死を予告したり、雌雄うちそろって人間や鬼に化して人を誑かすことも辞さない。つまりあらゆる聖なるものと、それにまた道化と同様に雞もまたその宇宙論的シンボリズムにおいて本質からしてアンビヴァランスを帯びているのだ。雄雞は好色で見栄坊でうさん臭い。雞姦という語には譬喩以上のリアリティがあるのであって『捜神記』巻六の語る説話によれば雞は雌雄にわたって両性具有的である。(略)『捜神記』によると雞の性の転換は「気」の乱れに起因するという。つまり陰と陽の気の転倒であり、それはこの文化に有力であった象徴的二元論に基づく正常な秩序の破壊を意味する。破壊は陰と陽、男と女、右と左、上と下、昼と夜といった抽象的原理の混乱と転倒に限定されるものではなく、呪術−宗教的な世界表象が支配するこの社会では現実の世の秩序の崩壊をも告示するのである。(後略)(pp.357-360)
雞については、その空間的カテゴリーのミスフィットも重要だろうとは言っておきたい。鳥は飛ぶという属性によって天空に属すが、雞は鳥であり翼があるにも拘わらず、飛べないことによって、地上に属してしまう。
なお、大室氏は「環太平洋文化圏の雞の神話論的シンボリズム」に関して、石田英一郎「隠された太陽」(in 『桃太郎の母』)と南方熊楠『十二支考』をマークしている(p.364)。
十二支考〈下〉 (岩波文庫)

十二支考〈下〉 (岩波文庫)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090922/1253594813

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061013/1160761446

*3:儒家のパフォーマンス性を巡っては、浅野裕一儒教 ルサンチマンの宗教』も参照されるべきか。

儒教ルサンチマンの宗教 (平凡社新書 (007))

儒教ルサンチマンの宗教 (平凡社新書 (007))

*4:英語でもcockは陰茎を意味するが。