「別世界の言葉」(メモ)

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)

若松英輔『生きる哲学』*1第7章「待つ リルケと詩が生まれるとき」では、先ず遠藤周作*2の『死について考える』の一節が引用されている;


ひょっとすると、別世界の言葉を私たちは理解できないから、それが沈黙に見えるだけかもしれない。それを日常の言葉では理解できないから、沈黙としか我々には思えないのかもしれない。(Cited in p.130)
そして曰く、

人間の日常的な意識では理解できない「別世界の言葉」は、当然ながら言語の姿をしてはいないだろう。だが、言語だけが意味を表わすと考えるのは、現代に生きる人間による狭隘な取り決めに過ぎない。
かつて、自然の動きは超越のコトバだった。ときに雨は言語よりも鮮明に神の意思を表わした。だが、誰もがそれを認識できたわけではない。旧約聖書の時代、それを感じとる者は預言者と呼ばれ、東洋では巫覡と呼ばれた。ある人々は、そうした人間を聖者と称したりもする。
古代中国の哲学、文学を決定したのは、巫覡の詩学だったといってよい。この頃まだ、詩と哲学は一つだった。『楚辞』の中核的人物である屈原(前三四三頃〜二七七頃)、孔子老子も皆、巫者の伝統に連なる者だった。万葉における柿本人麻呂も同系の伝統に生きた。彼らには、自己の思想、自己の芸術は存在しない。屈原が謳ったのは異界の響きであり、孔子が発したのは天からの声だった。老子が語ったのは「道」が照らし出す永遠であり、荘子はそれをときに詩に謳いあげた。人麻呂は歌人である前に、言葉をもって魂に呼びかける祭司だった。彼らは語る人である前に、聴く者だった。彼らが語ったのは、何ものかが彼らに託したコトバだった。(pp.130-131)
楚辭―譯註 (岩波文庫 赤 1-1)

楚辭―譯註 (岩波文庫 赤 1-1)

これに関して、白川静先生の著作でマークしておきたいのは、『中国の古代文学〈1〉 神話から楚辞へ』、『孔子伝』、『初期万葉論』。また、シャーマンとしての屈原を巡っては、井筒俊彦『意識と本質』*3X、pp.189-200が参照されるべきであろう。
孔子伝 (中公文庫)

孔子伝 (中公文庫)

初期万葉論 (中公文庫BIBLIO)

初期万葉論 (中公文庫BIBLIO)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)