「コトバ」と「言語」(メモ)

生きる哲学 (文春新書)

生きる哲学 (文春新書)

若松英輔『生きる哲学』について、「この本全体を貫くテーマを強引に切り出してみれば、それは「読む」こと(また「書く」こと)であり、「コトバ」と「言葉」の区別ということになるだろう」と書いた*1。というころで、「コトバ」と「言葉」について、本書の序章「生きる 言葉と出会うということ」から初歩的なメモ。
「意味の塊」としての「言葉」*2(p.13);


(前略)私たちは日常生活のさまざまなところで意味を感じている。言語以外の呼びかけにも意味を感じることは少なくない。
朝、日が昇るのを見て美しいと思う。それにとどまらず、ある充実を感じる。あるいは深い畏敬の念に包まれる人もいるかもしれない。雨のなかにたたずむとき、静かな大地のうごめきを感じる者もいるだろう。鳥のさえずり、川の流れ、私たちは万物の動きに意味を感じることができる。逆の言い方をすれば、世界は人間に読み解かれるのを待っているようにさまざまな意味を語っている。
ここで、『古今和歌集*3紀貫之による「仮名序」が引用される(ibid.)。「万の言の葉」としての「やまとうた」。そして、

ここでの「歌」は単に五七五七七の三十一文字を指すのではない。「歌」の姿をした意味の塊を指している。本書では、言語の姿にとらわれない「言葉」をコトバと片仮名で書くことにする。(p.14)
古今和歌集 (岩波文庫)

古今和歌集 (岩波文庫)


私たちが文学に向き合うとき、言語はコトバへの窓になる。、絵画を見るときは、色と線、あるいは構図が、コトバへの扉になるだろう。彫刻と対峙するときは形が、コトバとなって迫ってくる。楽器によって奏でられた旋律が、コトバの世界へと導いてくれることもあるだろう。
形の定まらない意味の顕われをコトバと呼んだのは哲学者の井筒俊彦(一九一四〜一九九三)である。主著と呼ぶべき著作『意識と本質』*4で彼は、コトバの働きにふれ、次のように書いている。

およそコトバなるものには「天使的側面」があるということ、つまりすべての語*5は、それぞれ普通一般的な意味のほかに、異次元的イマージュを喚起するような特殊な意味側面があるということだ。「天使」などのように、始めから異次元の存在を意味する語ばかりでなく、「木」とか「山」とか「花」のようなごくありきたりの事物を意味する語も、やはり、異次元的イマージュに変相する意味可能性をもっている……*6
あらゆるコトバは、彼方の世界と私たちが生きている世界の架け橋となる。コトバはもともと「異次元的」に実在している、というのである。
たしかに、私たちはコトバの意味――意味であるコトバ――がどこにあるか、と指差すことはできない。それが単なる意識的反応ではないことは誰もが毎日の生活のなかで実感している。
あここでは井筒は「天使」という表現を用いているが、仏教においても同質の現象は起こっている。井筒は、日本あるいは東洋の哲学の源流を求め*7、仏教の今日的意義を再発見する。仏教の伝統に、西洋とは異なるかたちで脈々とつらなる「哲学」の営みを見出す。井筒が、熱情をもって論じたのが空海真言密教における曼荼羅の哲学だった。密教においてコトバは、ときに曼荼羅の姿をもって表される、曼荼羅は幾多の経典にけっして劣ることのない叡知の結晶の表現だと井筒はいう。
ただ、曼荼羅を見るとき、私たちは文字を読むように眺めてはならない。そこに書かれているコトバは、文字とは異なる秩序に基づいている。曼荼羅が見る者に求めるのは、言語の感覚を鎮め、コトバの感覚を開くことなのである。
曼荼羅に限らない。仏教の伝統にはさまざまな姿でコトバは生きている。偉大な仏教者が著述を書き残すように、ある者は仏画を描き、仏像を彫る。虚心に向き合う労を厭わなければ、私たちは一つの仏像を眺めることで、仏教の核心にふれることができる。その道が閉ざされているとしたなら、仏師たちが作ったのは単なる偶像に過ぎないことになるだろう。奈良東大寺の大仏、盧舎那仏が表現するのは荘厳な姿だけでない。あの像には華厳経の教えが、まざまざと顕われている。(pp.14-16)
意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

古寺巡礼 (岩波文庫)

古寺巡礼 (岩波文庫)

ここで、和辻哲郎の『古寺巡礼』*8が言及されるのだが、ちょっと休憩。
上で引用された『意識と本質』の一節。実際の文脈としては、米国のユング派心理学者ジェイムズ・ヒルマン*9のa new angeliology of words、「コトバの新しい天使学」という概念を解説・敷衍している。「天使」というのは井筒先生の表現というよりはヒルマンの表現というべきだろう。さらに、井筒先生はヒルマンの謂うangeliologyが仏蘭西イスラーム学者アンリ・コルバンのangeliologieを英訳したものであることを指摘している。