吉本隆明 on「九条」

吉本隆明が『第二の敗戦期 これからの日本をどうよむか』という2012年に上梓された本*1の中で日本国憲法「九条問題」を語っている。


つまり平和憲法というような意味合いでの「平和」という言葉を使わないので、憲法の中の非戦条項というのが九条の主題だと見ています。これは戦わないという条項なのであって、平和かどうかとか、平和の定義がどうなのだという問題とは全然違うことだと思います。
九条の非戦条項というのは、ただ戦わない、つまり国と国との戦争でもって国際的に起こった問題を解決することはしないとしているわけです。それはぼくたちにとって、戦争で得したことなんかなにもなかったわけですが、戦争をやって敗戦したことが唯一の収穫だと思っています。(pp.123-124)
吉本は個人的に「いくつかの付帯条項を持って」いるという。

ひとつは、国と国との国際的な戦争というものには、侵略戦争と正義の戦争があるというような毛沢東流の考え方は取らないし、そういう考えはまちがいだと思っています。(略)はっきりそれは違う、戦争自体を悪だといいたいと思います。
国際間の、国と国の間の紛争、それぞれの利害関係を含む紛争という、そのこと自体を戦争で片付けよう、解決しようというのは悪であるというべきです。
ようするに、侵略戦争があったり正義の戦争があったりと、そういうことはないのです。戦争に携われば悪に携わったといことであって、どちらだって同じことだといえます。だからそれは認めない、というのがぼくのひとつの、自分でもって考えている、自分に言い聞かせている付帯条項です。(pp.124-125)
もうひとつの「付帯条項」というのは、集団安保的な経緯の中で、日本が戦争に巻き込まれて、「自分の兄弟とか親とか奥さんとかが、戦闘の余波で、目の前で、どういう殺され方かは問わないけれども、殺されてしまったとすれば、どうするのか」ということに関わっている。

悔しさを滲ませながらただ黙っているか、あるいは「もう、おれは我慢ならない」と思って、相手に対して及ばずながら反撃するか、そうでなければ、自分と同じような目に遭った人たちを集めて戦争しようではないか、やってやろうではないかと思うことについて、憲法九条はそれを抑止する規定をしていない、と思っています。
つまり、そういうことは勝手にやれということが、ぼくの考え方になります。
自衛隊は国家の軍隊だから、国家がやめろといえばやめるかもしれないし、和解しろといえば和解するかもしれないけれども、自分の肉親が目の前で殺された人たちが、応戦することに対しては、憲法九条は規定するだけの力はないですよ、とぼくは思っています。(p.126)

つまり個人や家族の問題から派生するのは、個人の戦争であり正義の紛争であるという個人幻想、対幻想のことになり、国と国との共同幻想の戦争とは全然次元が違うものだといえます。
けれども、そうなった場合に、その場だけ凶悪になるかもしれないし、我慢してなにかで代償するようなことを考えるかは、個人の問題になると思います。(p.127)
共同幻想論*2と戦争体験の関係については、安藤礼二吉本隆明 思想家にとって戦争とは何か』をマークしておく。