あらまほしき犯罪者

承前*1

「川崎20人殺傷事件 「エリート標的」と「拡大自殺」に見る宅間守への崇拝」https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190605-00563965-shincho-soci&p=1


週刊新潮命名するところの「川崎20人殺傷事件」の犯人たる岩崎隆一は殆ど言葉を残さなかった。今までに言葉を残さなかっただけでなく、犯行現場で自殺してしまったので、供述や証言という仕方で言葉を残し、自らの思想を表出するとという可能性も自ら断ってしまった。なので、岩崎思想なるものを再構成するというのは極度に困難な課題となってしまった。一方で、典拠を遡れない「岩崎隆一」像が氾濫している。まあ、それらの信憑性というのは、あの幸福の科学が量産している「霊言」を超えるものではないといえるのだろうけど、逆に、俺が岩崎だったらこう感じ・こう考える、とか、こんな岩崎だったら安心だという提示する側の事情を理解するための素材を提供しているともいえる。上掲の記事もそう。
「エリートの卵だから狙った」という動機が提示されているが、岩崎はそんなことを表明しているわけではない。ただ、そういうルサンティマンを設定すれば、私たちはこの事件を理解しやすくなるし、また安心する。たしかに、何の理由付けもなくこの悲惨な暴力に向き合うことは私たちを根本的な不安に突き落とすだろう。
さらに凄いのは、「池田小事件の宅間守*2への崇拝がありありと見て取れるのだ」という主張。しかも、「宅間が凶行に及んだのは6月8日。本州が梅雨入りを待つという季節までもが似通っているのだ」という季節論・風土論的な指摘まで添えられている。今後、「宅間」は俳句の季語になるのだろうか。「岩崎」も。実は、最初にこの記事のタイトルを読んだとき、凄ぇ! 宅間守に関するメモを週刊新潮は見つけたのか! と思ってしまった。しかし、それは裏切られた。その根拠は全て片田珠美*3というおばはんの推測だったのだ!


「今回のケースは典型的な『拡大自殺』というものです。宅間事件とそっくりで、それをマネてやったのではないかと見ています」

 と分析するのは、精神科医の片田珠美氏である。

「人生に絶望して厭世観を抱き、自殺願望がある。ならば一人で死ねばいいはずが、社会に対して怒りを抱き、死ぬ前に復讐したいという思いがある。一人で死ぬのはいやだから無理心中のような形で他人を巻き込み、犯行後に自殺するケースが少なくありません」

 アメリカで発生したコロンバイン高校やバージニア工科大の銃乱射事件の容疑者も同様に自ら命を絶っている。宅間の場合も事件直後に、「自殺をしたい。死にきれないから、死刑にしてほしい」と口走っていた。自殺こそ図らなかったが、死刑判決後に控訴を取り下げている。更に早期の執行を訴え、実際そのようになったのだった。

「無差別殺人は大きく二つに分かれます。秋葉原通り魔事件のように不特定多数を狙うケース、宅間や今回のように特定多数をターゲットにするケース。池田中に入学を願ったが叶わなかった宅間は、そのエリートの卵を羨望のまなざしと敵意とがないまぜになった形で見ていたのです」(片田氏)

 今回の岩崎も宅間と共通し、小さくて弱い者を痛めつけたいという憎悪と、将来性豊かな彼らへの羨望というアンビバレントな感情があったと見るのだ。


(前略)再び前出の片田氏はこんな指摘をする。

「長期に亘る欲求不満、他責的(他人のせいにしたがる)傾向、破壊的喪失、外部からのきっかけ、社会的心理的孤立、大量破壊のための武器入手。こういった項目が幾つか揃うと、大量殺人が引き起こされる可能性が高くなるのです」

 長らく脱却できないデフレ、拡がる格差がそうさせるのだろうか、宅間は死してなお、不満分子の憎悪を具体化し、取り憑いて破壊に駆り立てているようだ。岩崎を第二の宅間と呼ぶなら第三、第四の宅間が登場しかねず、無辜の被害者がまた生まれ続けることになるのか。

この事件の教訓は、何よりも「無敵の人」だけでなく〈無言の人〉を畏れよということだろう。