ターゲットの不在の帰結

Helpless [DVD]

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ナポリタン」絡みで既に言及しちゃったが*1青山真治の『Helpless』の内容についてちょっとメモ。
この映画では主役の健次(浅野忠信)よりも松村安男(光石研)の存在の方が重要なのではないかと思った。安男は鉄砲玉として人を殺し、ムショ勤めをして、仮出所で娑婆に出てくる。しかし、ムショにいる間に組長は死に、組は解散して、かつての朋輩たちはカタギになっている。しかし、安男は組長の死、組の解散を信じない。彼は自分に人を殺させ、ムショに押し込んだ組長に殺意を抱き、組長の死や組の解散をいう連中を次々と殺していく。重要なのは組長は死んでいるということだ。つまり、死んでいる者を殺すことはできないのであって、安男の暴力は永遠にその目的を達成して終わりになることはない。安男の暴力は喫茶店のマスター、それから健次に伝染する。健次の場合は勿論、精神病院に押し籠められた父親の自殺という重要な契機があるのだが。また、続編にあたる『サッドヴァケイション』でも安男は回帰し、物語を大きく転換させるのだが、これも安男の暴力が永遠に完結する可能性を持たないということに由来しているのだろう。
安男の暴力のターゲットが(永遠に)不在であって、それが完結する可能性を持たないことは安男の身体にも刻印されている。安男は片手を失っている。失っていることそれ自体というよりも、下にあるべき腕が不在の安男のジャケットの袖が風に揺られているシーン。それは帰属すべきシニフィエが見つからない〈浮遊せるシニフィアン(signifiant flottant)〉なのだ。

さて、安男にもまして重要なのは、その妹であるユリ(辻香緒里)。彼女は知的障碍を持つ者としてキャラクター設定され、秋彦にはあからさまに「バカ」と罵られる。しかし、この映画の彼女を観れば、イノセントが知的障碍とともに無垢や無罪の意味を持つことを瞬時に理解できるのではないか*2。さらに、このことは彼女にこの映画の中に渦巻くhelplessな暴力の連鎖から逃れた超越的な証人の資格を与えている。そして、(『サッドヴァケイション』でもそうだけれど)、未だ語られてもいないし撮られてもいない(永遠に語られ・撮られることはないかも知れない)物語の存在可能性を感じ取ることができる。つまり、ユリの視点からの物語。
伊佐山ひろ子の無愛想な演技はよし。
それから、古びた工場の遠景が何度か出てくる。中国で北九州に対応する場所は汾陽なのではないかと、唐突に思った。誰か、青山真治賈樟柯*3を比較して論じていないかな。

さてさて、『ユリイカ』はまだ観ていない(探してはいるのだが)。小説版は読んだけれど。

ユリイカ (角川文庫)

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