南北問題(川崎篇)

昨年所謂「川崎国」事件*1が発覚して、世間は凄い衝撃を受けたのだが(だがもう既に忘れているか)、そのとき、そういえば川崎のsocial topography*2って実は(大人の事情もあって)あまり伝えられていないんじゃないかと思ったのだった。


磯部涼*3「川崎の不良が生きる“地元”という監獄」http://www.premiumcyzo.com/modules/member/2016/01/post_6468/


ラップ・グループ、BAD HOP*4を軸に川崎の〈南北問題〉を語る。
曰く、


川崎は2つの顔を持っている。その名前を聞いたとき、多くの人はベッドタウンと重工業地帯という対照的なイメージを連想するだろう。あるいは、平穏だが退屈な郊外と、荒廃しているが刺激的な繁華街というイメージを。

 そして、そういった2つの側面は、それぞれ、川崎市の”北部”と”南部”が担っているといえる。今、北部/南部と書いたが、実際には、同市は東京2区5市と横浜市に挟まれた、北西/南東方向に細長い形をしている。しかし、住民の中には北部と南部という区分を用いる者が多いのだ。例えば、68年に生まれ、多摩区で育った歌手の小沢健二は、自身の根底にある空虚さを“川崎ノーザン・ソウル”と呼んだ。彼との共作でも知られ、90年代初頭のデビュー当時は日本の平坦な社会状況ならではのラップ・ミュージックのあり方を模索した、スチャダラパーのANIとSHINCOも川崎北部・高津区の出身だ。

 一方、川崎南部はまた別のリアリティを持っている。川崎区で95年に生まれたメンバーを中心に構成される若きラップ・グループ、BAD HOPの楽曲を再生すると、シカゴ南部発のジャンル“Drill(ドリル)”を思わせる緊迫感のあるトラックの上で、“川崎サウス・サイド”と叫ぶ声が聴こえるだろう。彼らは、アメリカの中でも特に治安が悪いことで有名で、Chicago(シカゴ)とIraq(イラク)を掛け合わせ、“Chiraq(シャイラク)”とさえ呼ばれると同時に、近年、ラップ・ミュージックの新たなメッカとして世界中で注目されるシカゴのサウス・サイドと、自分たちの地元を重ね合わせているのだ。

 もちろん、川崎区にもベッドタウンとしての、あるいは平穏だが退屈な郊外としての顔がある。恒例のハロウィン・パレードを見物するために川崎駅に降り立った人々の多くは、この街のもうひとつの顔には気づかないかもしれない。しかし、川中島や池上町といった、中心地から離れた、さらに南部の地域で生まれ育ったBAD HOPのメンバーたちの身体を埋め尽くしているタトゥーは決して仮装ではないのだ。そんな彼らにとって身近なのは、同じ市内の北部よりも、むしろ、重工業地帯としてつながっている横浜市鶴見区かもしれない。また、その身近さは敵対という形をもって表現される。


川崎区は、暴力団がいまだに深く根を張っている土地だ。そして、当初、彼らはやんちゃな少年たちにとってのフッド・スターだった。「東京って、普通に金持ちが多いじゃないですか。でも、自分たちの周りで金を持ってるのは、職人として成功してるか、アウトローってイメージがありましたね。あるとき、多摩川の河川敷にサッカーをしに行ったら、真っ白なベントレーが4台止まってて、若い衆が掃除させられてて。それで、後から来たボスが(BAD HOPの)G-K.I.Dのお父さんだったんです。『カッコいい!』って感じでしたね。G-K.I.Dがゲーム機をなんでも持ってたのも羨ましかった」(TP)。一方、当事者の視点は少し異なっているようだ。「オレは鈍感で、親父が暴力団だってことに気づいてなかったんですよ。『ウチに車がいっぱいあるのは、車屋の社長だからだよ』って言われてたし(笑)。でも、景気が良かったのは小学生の頃だけ。そのうち、上納金が厳しくて電気が止まったり……生活が苦しいせいで母ちゃんとも離婚して、今、親父は普通の仕事をしてます」(G)

 近年、暴力団が不況産業化していることはよく知られているが、結果的に締めつけられるのは下部組織だ。そして、その影響は地元の不良少年たちにすら及ぶことになる。フッド・スターの化けの皮が剥がれ、モンスターが襲いかかってきたのだ。当時、BAD HOPがいたのは、堅気の社会よりよっぽど息苦しい社会である。

さて、「北部」は昔はまた別の顔を持っていた。「農村」(或いは山村)。最近、「川崎市宮前区土橋」に生まれ育った小倉美恵子さんの『オオカミの護符』*5を読んだばかりなのだった。小倉さん曰く、

昭和四七年以降、小学校の三年生になったころからマンションや建売の家が増えてきて、小学校の数も増え、宮崎小学校に入学した私は、家の近くに新たに開校した富士見台小学校に移ることになりました。富士見台小学校のクラスメートは、これまでのお友達とは全く違っていました。言葉づかいも、着ている洋服も、お弁当の中身も、そして住んでいるおうちも……。
私の家は茅ぶき屋根のおうちで、土橋で採れる土と草と木、そして竹でできていました。茅ぶき屋根のおうちの周りには牛を飼った牛小屋があり、その向うには畑や竹やぶがあって、私のおじいちゃんはいつも畑で仕事をしていました。(pp.15-16)
オオカミの護符 (新潮文庫)

オオカミの護符 (新潮文庫)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150318/1426656083 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150512/1431444219

*2:See J. Hills Miller “E. M. Forster: Just Reading Howards End”(in Others, pp.188-189. Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100202/1265126531 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100222/1266853963 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100304/1267698455 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110530/1306785462

Others

Others

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050711

*4:https://twitter.com/badhopera044 See eg. 「MADE IN KAWASAKI 工業地帯が生んだヒップホップクルー BAD HOP」http://jp.vice.com/lifestyle/made-in-kawasaki-bad-hop 「ヒップホップで更生」http://benzeezy.hatenablog.com/entry/2015/11/20/113223

*5:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20151223/1450841934