運がいいとか悪いとか

さだまさしは大嫌いではあるが、何故かこんなタイトルに。
以前読んだ、樋口裕一『日本語力崩壊』(中公新書、2001)。個々の論点には?というところもあるが、その中で前々から気に入っている部分;


努力した人や能力のある人がよい目を見るのが健全な社会だという意見もあろう。もちろん、それが社会の基本であってほしい。だが、努力しなかった人も能力のない人も、運がよいためによい目を見ることがあってもいいのではないか。「運」「偶然」「幸運」「宿命」という領域を残しておかないと、人間、救いがない。「自分がこんな生活をしているのは、無能だったからだ」「努力できない人間だったので、こうなった」というのでは、救いがない。運の悪さのせいにしてこそ、プライドを持って生きていける。
そして、現に、成功するもしないも、学歴をつけるもつけないも、大いに運が左右すると考える。大学入試の当日にたまたま体調が悪くて人生が変わった人、選択した科目のせいで志望校に入れなかった人など、数限りなくいるだろう。いや、それ以前に、経済的理由で勉強できなかった人、家庭環境によって勉強できる雰囲気ではなかった人、高校時代にいじめや人間関係に苦しんだ人、たまたま受験の時期に恋愛やスポーツなど、夢中になるものを見つけてしまった人など様々だ。そして、それらはまさしく運にほかならない。もっといえば、能力があるというのも、一つの運にほかならない。そうした運を認めず、すべてを努力の成果とするのは、運良く学歴競争に勝ちぬいた人のおごりという面もあるのではないだろうか(pp.50-51)。
考えてみると、純粋に〈公正で透明な社会〉というのはひどく生きづらい社会だ。それが共産主義であっても新自由主義であっても。私が公的に存在すること、それは私が公的に発言することである。言い訳する可能性が封じられたとき、私は公的には存在しないということになる。
ただ、この発想は現存する不公正をそのまんま放置するということにも繋がりかねないので、取扱注意ではある。これをもう少し社会哲学的に洗練させるには? リチャード・ローティとかを参照する必要ありか。