Tolerance or generosity?

大野左紀子「「寛容」という言葉」http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110211/1297411236


http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110210/p1における「寛容」という言葉の使い方がおかしいという話。曰く、「そもそも異質な者を排除した「身内」に対する「甘さ」を、果たして「寛容」と呼べるのか?という疑問がある」。また、語源に遡って、


異なる民族や異なる宗教、価値観がぶつかり合うヨーロッパで、異なる者と共存することにより自分も生き延びていくという知恵から、一種の紳士協定として「寛容の精神」が生まれた。

お前のことは今いち気に入らないが、喧嘩するのも互いに労力の無駄遣いだからまあ大目に見てやるよ、その代わりこっちのことも我慢しろ。この均衡が崩れたら戦争です。生易しい観念ではなかったわけです。

それも互いが共存することで何らかの利が得られる関係においてであって、そうでない場合は「寛容の精神」など発揮せず潰しにかかる。魔女狩りはそうやって行われた。

また、

エスニック・マイノリティ、セクシュアル・マイノリティに対して、「寛容」という言葉が使われるのを見たことがある。「慈悲」と同じで、ちょっと失礼な上から目線になるだろう。「寛容」はあくまで主流の感覚、正統的価値観を自認する、余裕ある者の態度。異なる者として互いを認め合う言葉には「尊重」を使いたい。
「尊重」というと、カントの『道徳形而上学原論』を思い出すけれど。それはさて措き、toleranceという語は今でも許容範囲という意味で使われ、医学や薬学では毒物への耐性、食品安全では(農薬などの)有害物質の限界許容量という意味である。理系の人だと、「寛容」などよりもこちらの意味の方が馴染み深いのでは? また、上でも指摘されているように、「寛容」には抑圧的な側面があるわけだが、1960年代の〈叛乱〉が異議申し立てしたのは、そうした「寛容」の抑圧性に対してであった。ヘルベルト・マルクーゼは「抑圧的寛容」という言葉を使っている(『純粋寛容批判』)。
道徳形而上学原論 (岩波文庫)

道徳形而上学原論 (岩波文庫)

純粋寛容批判 (1968年)

純粋寛容批判 (1968年)

ところで、「寛容」と(少なくとも表面的には)近い意味を有する言葉に〈鷹揚〉というのがある(英語でいえば、generosityまたはliberality)。ここ20年とかの(相対的に短い)時間尺度で見た場合、失われているのは「寛容」よりも寧ろ〈鷹揚〉なのかも知れない。1980年代、また90年代でもバブルの余韻が残っていた頃は今のようにせこい悪事や些細な逸脱にみんなが神経をぴりぴりさせるということはなかったぞ。こうした社会は、ニーチェが『道徳の系譜』で指摘していたように、「強い」社会ではない(See also Bonnie Honig Political Theory and the Displacement of Politics, p.137*1)。そういえば、鷲田清一先生は、「自由」(「リベラル」)の本義を説いた文章(堀江敏幸『河岸忘日抄』の「解説」)で、generosityを「寛容」と訳しておられる(p.406)*2。まあネオリベが「リベラル」ではあり得ないのは何よりも先ず奴らがケチであるからだろう。
道徳の系譜 (岩波文庫)

道徳の系譜 (岩波文庫)

Political Theory and the Displacement of Politics (Contestations)

Political Theory and the Displacement of Politics (Contestations)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

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