アランとシモーヌ

冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ*1から;

シモーヌが家族外の人物につよい感銘を受けたのは、一六歳で入学した高等中学アンリ四世校の哲学準備級の教授アラン*2をもって嚆矢とする。カーニュと呼ばれるリセ最上級クラスの生徒の多くは、フランス最高学府のひとつ高等師範学校合格をめざす。シモーヌがアンリ四世校のカーニュを選んだのは、[兄の]アンドレと同じ高等師範学校を受験する心づもりもあったが、ほかならぬアランの指導を仰ぎたかったからだ。アランの教授職の前任者は、アンリ・ベルクソンでありレオン・ブランシュヴィクである。その後ベルクソンコレージュ・ド・フランスギリシア・ローマ哲学の教授となり、パスカルの『パンセ』編纂者としても有名なブランシュヴィクは。パリ高等師範学校の哲学教授となり、シモーヌ・ヴェイユの卒論指導を担当し、落第すれすれの点をつけた。(p.13)

(前略)アランはみずからも公言するように、なんらかの新しい学説を唱道する思想家ではない。プラトンデカルトを敬愛し、カントの批判学の手法でふたりの哲学を再吟味し、その使信の核心を後進に伝えることを使命とした。スピノザにたいする愛は、自身の師ジュール。ラニョー*3 から学んだ。アランもラニョーも、彼らが敬愛する先人と同じく、哲学と政治と数学をひとしい情熱で愛した。アランのよき教え子として、ヴェイユもまた哲学と政治と数学のむすびつきに魅了される。理性によって承認された秩序と志向の自由は同義語であり、放埓や気ままは意志と思考の脆弱さにほかならぬという確信も、この明朗な意志の讃美者アランのもとで得たのだった。
ヴェイユが師に教わったものは、プラトンデカルトへの愛だけではない。哲学の方法と生きる姿勢も学び、極端さと純粋さにおいてしばしば師を凌駕した。アランはつねづね説いていた。正しい思考は正しい行動をみちびき、欺瞞と妥協にみちた人生は生きるにあたいしないと。この信念があったから、第一次大戦が勃発すると、四六歳の年齢をおして、将校としてではなく一兵卒として従軍を志願する。筋金入りの平和主義者だったが、塹壕内での兵卒の隷属状態のなかで、自由と矜持を失わず思考するすべを身につけようとした。いっそうの説得力をもって戦争の愚劣さを語るために。(pp.14-15)