ヴェイユは孤独な存在を愛した。プロメテウスやアンティゴネーは権力や卑小さにあらがって純粋さをつらぬき、ディオニュソス・ザグレウスやオシリスは悪にひき裂かれて死んだ。しかし、なかでもキリストへの共感は特別である。キリストは神話や悲劇の登場人物ではない。飢えや痛みを知る生の人間として地上で生を送り、弟子や近親者をふくむ身近な人びとの無理解や社会的な失墜のみじめさを味わった。神からもみすてられたと感じ、長い断末魔の苦しみのはてにいやしい犯罪者として刑死した。みじめなアウトカーストとしての事実が、みずからも占領下のフランスを追われて流浪の身にあったヴェイユを圧倒したのだ。このキリストへの共感を理解することなくして、ヴェイユの思考の全貌に迫ることはできない
しかしまたヴェイユの傾倒は、キリストに具現される人格神にとどまらない。むしろよりいっそう、この地上においては冷酷な機械的必然となってあらわれでる神の不在、もしくは非人格的な神の顕現へとむかう。神の人格的な側面と非人格的な側面とに着目し、此岸における神の完璧なる不在、彼岸における神の完璧なる充溢、この相反する現実を同時にとらえようとした。神の不在と充溢の修辞は、論理破綻ゆえの矛盾をあらわにするのではなく、通常の論理ではとらえられぬ真理をつまみあげるピンセットである。思考の操作によっても解消されぬ矛盾は。複数の関係性を同時にやどす多層性の証明であり、多層性こそが実在の兆候なのだ。(pp.7-8)
