承前*1
冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ』から;
アランの哲学の教授法は学生に徹底的に書かせることである。思考の修練を工房での徒弟修業とみなし、一日すくなくとも二時間は書くことを求めた。不統一で乱雑な筆跡は不統一で乱雑な思考を生む。訂正や加筆は構成力の欠如にすぎない、が口癖であった。(後略)(p.16)
ヴェイユはアランを心から尊敬していた。アンリ四世校での三年間のみならず、高等師範学校の学生になってからも、アンリ四世校の哲学級のクラスに通い、アランに作文を提出しつづけた。重要な論文はかならず感想を求めた。アランは最後まで「師」であった。それでも、ときにアランを容赦なく批判もした。他の多くの「アラン教徒」には思いもよらなかったことだ。一九三〇年代に入ってもスターリンへの幻想をすてられずにいるアランを批判し(AS*2301)、ナチス支配に迎合して親ファシストのドリュ・ラ・ロシェルを主幹にむかえた『新フランス評論(NRF)』に、「さほど重要でもなく緊急でもない」モーリアック論を寄稿したこともゆるさなかった(AS 421)。一九四一年にはマルセイユからアランに手紙を書いた。対独協力者についての態度を決定してほしい、いまこそはっきり言明すべきときなのだからと(AS 421-422)。アランの返事はなかった。
アランのほうも、この風変わりな教え子の言動すべてに共感したわけではない。挑発的そぎる口調は論考の品位をそこなうと危惧し、工場就労などは労働のなんたるかを知らぬインテリ青年の考えそうな無意味な試みだと考えていた。ノルマンデイーの獣医の息子の眼に、都会的で土の匂いの希薄な教え子の行動は、ときに理解をこえるものと映ったが、並はずれた知性と精神力は認めていた。(後略)(pp.17-18)
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アランは哲学講義の一環として、毎年かならず哲学者と文学者をひとりずつ選び、通年、週一時間ずつ、学生たちに徹底的に研究させた。このプログラムにそってヴェイユは、一六歳でプラトンの対話篇の大半とバルザックの小説の大半を、一七歳でカントの『純粋理性批判』『実践理性批判』とホメロスの『イリアス』を。最終学年の一八歳でマルクス・アウレリウスの『自省録』*3とルクレティウスを読んだ(SP2*4 58)。アランは心理学や哲学の凡庸な論文よりもすぐれた文学のほうが、はるかに研ぎすまされた洞察力をやしなうと信じていた。文は人なり、よく書くことはよく考えること、というわけだ。そしてスタンダールの贅肉のない文体と火と燃える情熱を愛した。そのスタンダールが絶賛したのがスタール夫人の『コリンヌ――イタリア紀行』(一八〇七)だった(A3*5 802)。アランの哲学級はもっぱら読書と思索と文章修業にあけくれる工房であり、徒弟たちが師の指示にしたがって黙々と修業をつみかさねていた。模倣を多としたルネサンスの担い手たちのように、ヴェイユもまた余人に劣らぬ熱心さでアランの思考法を徹底的に模倣し、やがて高等師範学校卒業とほぼ時期を同じくして、この師のもとを巣立っていった。(後略)(pp.19-20)
*1:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/01/06/193242
*2:Andre Sernin Alain, un sage dans la cite.
*3:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080614/1213459419 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080926/1222432462 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100219/1266520878 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/05/04/135702 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/05/14/085351
*4:Simone Pertrement La vie de Simone Weil(nouvelle edition).