モンテーニュ/吉本/柄谷

合田正人吉本隆明柄谷行人*1から。
合田氏は、吉本隆明がミシェル・エイケム・ド・モンテーニュ*2に直接言及したことはないかも知れないという。しかし、『エセ―』からの次の一節を「吉本の構えをよく言い表した一節」であるとして、引用している(p.60);


われわれの一生は、ちょうど世界の調和が種々の相反したものごとで構成されているように、さまざまな、こころよい音や耳ざわりな音、鋭い音や平板な音、やわらかい音や重々しい音で構成されている。一方の音だけを好むような音楽家は、なにを表現したいのだろうか。彼は、それらの音をどれも同じように使いこなし、混ぜあわせることができなくてはならない。われわれもまた、いろいろなよいこと、わるいことを混ぜあわせて使うようにしなくてはならない。それらは、どちらもわれわれの生の実質をつくるものなのだから。われわれの存在は、この混合の状態なしでは成立しない。そして、それにたいして、一方の群れは他方の群れに劣らず必要なのだ。
他方、柄谷は「その数々の論考の重要な箇所で、しばしばモンテーニュ」を「引用している」という(ibid.)。その例として合田氏が挙げるのは『マルクスその可能性の中心』*3の一節。合田氏は「アランを称える小林秀雄を彷彿させる」という(p.61)。

たとえば、モンテーニュのような思想家は反体系的な思想家の代表のようにみえる。われわれは、モンテーニュのいうことをまとめてしまうことはできない。(……)*4注意深く読むならば、『エセ―』のなかにはなにか原理的なものが、あるいは原理的にみようとする精神の動きがある。『エセ―』がたえず新鮮なのは、それが非体系的で矛盾にみちているからではなく、どんな矛盾をもみようとする新たな眼が底にあるからだ。そして、彼の思考の断片的形式は、むしろテクストをこえてあるような意味、透明な意味に対するたえまないプロテストと同じことなのである。  (一一ページ、講談社学術文庫)(Cited in p.61)
また、合田氏曰く、

憶測を記しておくと、柄谷の好む著者はモンテーニュ、アラン、ポール・ヴァレリー(一九七一~一九四五)、そしてサルトルではないだろうか。もとより知る由もないけれども、サルトルの『存在と無』(一九四三年)を柄谷は熟読し、そこからみずからの論理の組み立て方を学んだのかもしれない。もしそうなら、この読書は、柄谷にとって功罪併せもつ経験だったのではないだろうか。(ibid.)