「権力と精神の問題」

自由の精神

自由の精神

承前*1

萩原延壽「日本知識人とマルクス主義」(in 『自由の精神』、pp.44-57)から。


マルクス主義と知識人の問題を考えてゆくと、それは、結局、権力と精神の問題にゆきつくと思う。政治と思想との関係と言いかえてもよい。「徹底的であるというのは、物ごとをその根底において理解することだ。しかし、人間にとって根底とは、人間そのものに他ならない」(『ヘーゲル法哲学批判序説』、一八四四年)。――ここからマルクスにおける精神の運動が開始された。(p.50)

(前略)マルクス主義は、疑いもなく、資本制社会を理解するための、一つの有力な批判の武器を提供した。この意味で、マルクス主義の持つ思想史上の意義は、いくら強調してもよい。
しかし、マルクス主義マルクス主義である所以は、それが一つの社会認識の方法に留まることを欲せず、全体的な、最終的な世界観であることを主張する点にある。すべての価値を独占する、唯一正当な思考と行動の基準であることを要求する点にある。ここにおいて、すでに、ロシアの共産党が実際に政治権力を奪取する以前から、異なった思想の存在を認めないという意味で、高度に権力的な思想であった。この点において、歴史的には、それは中世ヨーロッパを支配したカトリック教に類似していた。
このマルクス主義の権力的な側面が、政治運動や政権の維持が不可避的に要請する政治の論理によってさらに強められることは、各国の共産主義運動の歴史や、ソビエト・ロシアをはじめとする各国の共産主義政権の実態が示している。「プロレタリアートによる独裁」も、独裁に伴う結果をまぬがれ得ない。権力は、いかなる思想によって行使されようとも、支配という権力の論理を貫徹させることをやめない。
マルクス主義も、実際上の必要から、マルクスの時代とは内容的にかなり異なったものに変容してきた。マルクスによって社会関係の最も基本的な単位とされた階級概念に、民族の概念が加わり、さらにフルシチョフによって、人類という概念の展望が賦与されはじめている。この意味でマルクス主義は、実際の運用を通して、本来の体系的な厳格さを喪失しはじめている。しかし、原理的に異なった世界観の存在を認めない、排他的な全体的イデオロギーという根本性格は変わっていない。(略)支配を目指す高度に政治的な思想である性格は残っている。(後略)(pp.51-52)
「知識人」にとっての「マルクス主義」の意味とは?

かつて、マックス・ウェーバーが、学問の任務は「世界を魔術から解放すること」(Entzauberung der Welt)であるとぼ書いたことがある(『職業としての学問』*2)。この「魔術からの解放」は、広い意味で、知識人の役割について当てはまる言葉だと思う。人間の社会に存続している、既成の価値体系や惰性的な思考の虚偽を暴露し、それらの呪縛から自分を含めた人間を解放してゆくことが。知識人の任務だ。この精神の運動を妨害する一切のものは悪と見なすべきであって、この意味で自由は知識人にとって不可欠なものである。
マルクスも、「人間にとって根底とは、人間そのものに他ならない」という地点から、精神の運動を開始、資本制社会にまつわる厚いベールを引きはがしたという点で、知識人の先駆者のひとりであった。しかし、マルクスの問題は、自己の方法を世界観にまで高めることによって、精神の運動を放棄し、自由を必然によって置きかえた点にある。「デカルトがその素晴らしい方法を放棄する、と見る間に坊主のように推論し始める」というスタンダールの批判をマルクスもまぬがれ得なかった(アラン『スタンダール』に引用)。精神の不断の努力によって、永遠の批判者の立場を堅持することにしか、知識人の役割はあり得ない。この立場が、ニヒリズムとも傍観的態度とも異なるのは、それが、不断の努力による惰性的思考の打破という精神の運動によって支えられているからである。(pp.52-53)
職業としての学問 (岩波文庫)

職業としての学問 (岩波文庫)

ここで言われている「権力」を暴力と言い換えたいという気持ちはある(アレンティアンなので)。
(続く)