レーニンを批判

冨原眞弓『シモーヌ・ヴェイユ*1から;


ヴェイユスターリニズム批判は、スターリンが教祖とあおぐドイツ共産党の裏切りによって鋭さをましていく。やがて、スターリニズムを準備したレーニンの学説に、そしてレーニン経由でスターリニズムへと発展する要因を秘めていたマルクスの学説そのものにも、批判の矛先がむかう。まずはレーニンの『唯物論と経験批判論』を書評(一九三三)で槍玉にあげる。いわく、レーニンがおおやけにした唯一の純粋に哲学的な理論書といえる本書の目的はただひとつ、エンゲルス唯物論から離反しようとする労働者運動の理論形を反駁することだ。肯定するにせよ否定するにせよ、結論とは検討のすえ導出されるものではないのか。ところがここでは、いっさいの検討をまたずして結論の正しさは保証されている。不可謬の専売特許を有する党が与える結論に、まちがいがあろうはずもないからだ。ヴェイユの反論はこうである。「しかじかの見解は、人間と世界との真の関係をゆがめる、ゆえに反動的だ」。これなら理にかなう。しかし、「しかじかの見解は、唯物論から離れて観念論へとみちびき、宗教に論拠を与える、ゆえに誤っている」。この恣意的な論旨からなにが読みとれるか。思考をなにがなんでも党公認の哲学体系に準拠させることが、自由な人間にふさわしい行為とは思えない。
「現在、ロシアの民衆に重くのしかかっている窒息的な体制は、レーニンが彼自身の思考にむきあう姿勢のうちに、すでに萌芽としてふくまれている」(II-I*2 304-305)。これではレーニンも、フランス革命を恐怖政治の血の海に沈めたロベスピエールと変わらない。(後略)(pp.45-46)