時間/ドストエフスキー/キルケゴール

木田元ハイデガーを読む」 in 『木田元の最終講義 反哲学としての哲学』*1、pp.9-61


少しメモ。


キルケゴール[『死に至る病*2]の言う絶望とは、自己分裂、たとえば可能的自己と現実的自己との分裂のことであり、その意味では人間は誰でもが絶望しているのです。そして、彼によれば、このように自己分裂しうるということ、つまり絶望しうるということは人間の非類のない長所だとされます。つまり可能性としての絶望は、人間のたぐいない長所なのですが、それが現実的になると、つまり現実性としての絶望は生きるに生きられず、死ぬに死ねない苦しみなのです。(pp.18-19)
死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)


キルケゴールがここで描き分けてみせる絶望のさまざまなタイプとドストエフスキーの小説の登場人物とをつき合わせると、実にうまく符合するのです。たとえば、キルケゴールは〈不安〉を「自分が絶望していることを意識していない絶望」と定義していますが、その叙述はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟*3に出てくるコーリャ・クラソートキンという少年の心理分析をしているとしか思えません。(略)
(略)『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフ、そこに登場する娼婦ソーニャの父親マルメラードフ、『悪霊』の主人公スタヴローギン、『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフ、こういった人物をモデルにして書いたとしか思われないくだりが『死に至る病』に頻出します。キルケゴールの叙述を参照しながらドストエフスキーの小説を読むと、その心理がよく分かってきますし、ドストエフスキーの小説の登場人物を思い浮かべながら読むと、少なからず抽象的なキルケゴールの叙述が具象化されてよく分かってきます。(pp.19-20)
カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)


(前略)紙を持ち出さずに絶望の構造を、あるいはこんなふうに絶望しうる人間の存在構造を解き明かしてくれる本がなにかないものだろうかと探しもとめているうちに、やはり斎藤信治さんの論文集『実存の形而上学』で、ハイデガーというドイツの哲学者が、キルケゴールドストエフスキーの強い影響を受けて『存在と時間』という本を書き、そこで時間という視点から人間存在の分析をしているということを知りました。
〈時間〉は、ドストエフスキーの小説でもキルケゴールの著作でも重要な役割を果たしています。『悪霊』には、スタヴローギンがチーホンという高僧の庵でおこなう「スタヴローギンの告白」という章があり、そこでドストエフスキーは〈過去〉というものがけっして過ぎ去るものではなく、〈現在〉、いや〈未来〉をさえも深く規定しているものだということを具象的に描いてみせますし、キルケゴールも、たとえば『不安の概念』*4のなかで、時計で測られる物理的時間のうちには場所をもちえない〈時間〉を問題にしています。時計で測られる物理的時間やわれわれの通俗的な時間表象にはとても収まりきれない時間的構造がわれわれの存在を規定しているということを、彼らは語ろうとしているのです。(p.21)
存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

不安の概念 (岩波文庫)

不安の概念 (岩波文庫)

斎藤信治を巡って;

(前略)ドストエフスキー論の一つといった感じで、キルケゴールの『死に至る病』を読みはじめました。岩波文庫の『死に至る病』の名訳者の斎藤信治さんが、私の住んでいた鶴岡と同じ庄内地方の酒田にいらして、私の入っていた農専*5に講演にこられ、キルケゴールの話をさせるのを聴いたのがきっかけでした。結局私は、この斎藤信治さんに終生師事し、この中央大学に連れてきていただくことにもなったのですが、それは後の話になります。(p.17)