「欠如の論理」

木田元ハイデガーを読む」(in 『木田元の最終講義 反哲学としての哲学』、pp.9-61)*1から。


むろん私も最初は、『存在と時間』を実存哲学の書として読み、そこにわが身一つをいかにすべきかの答えを求めようとしていていました。当時はこれがこの本の普通の読み方で、私もそうした読み方をしていたことになります。
しかし、そんなつもりで読むと、この本にはいささか期待を裏切られます。そうしたことなら、キルケゴールの方がずっと切実なのです。それに比べると『存在と時間』にはどこか形式的なところがあります。それに、論理が違うのです。キルケゴールはつねに「あれかこれか」という決断を迫ってくるところがありますが、『存在と時間』を貫いているのは、ハイデガーアリストテレスから学んだ「欠如の論理」なのです。これは、たとえば目の見える人のグループと目の見えない人のグループがあるばあい、それを相互外在的な二つのグループとして捉えるではなく、目の見えない人は、もともと目が見えるからこそ見えなくなりうるのだと考え、目の見えない人のグループを、目の見える人のグループの一部として、つまりその欠如部分として捉えるのです。ハイデガーはすべてをこの粉の論理で処理します。つまり、人間はもともと本来的に生きることができるからこそ非本来的にもなりうる、と考えるのです。非本来的な生き方をしている人たちは、本来的に生きている人たちの一部として、その欠如部分として捉えられ、非本来性は本来性のヴァリエーションにすぎないことになりす。こういう考え方には、キルケゴールの「あれかこれか」のような切羽つまったところがありません。実存的な思索を求めるなら、キルケゴールの方が遥かに適切に答えてくれそうなのです。(pp.29-30)
存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

これに関連して、「欠性対立(privative opposition)」については、例えば


上野千鶴子ジェンダー概念の意義と効果」『学術の動向』2006年11月号(http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200611/0611_2834.pdf


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