「鏡像」と「表出」

合田正人吉本隆明柄谷行人*1から。


『心的現象論 本論』(および『ハイ・エディプス論』)で、吉本はラカンのいう「鏡像段階*2に言及し、それをみずからの理論に適用している。その際、吉本は一方では、ハトの生殖腺の成熟やトビイナゴの群棲型への変化が同類の知覚によって惹起されるという動物行動学の教えを紹介するラカンに注目し(『心的現象論 本論』三五二ページ)、他方では、鏡像経験を、乳児が「環界」としての母胎から分離された帰結として捉えている。(p.94)
『心的現象論 本論』の一節;

鏡に映った乳児の自己像が、乳児によって自己のものとして確認されたときこの鏡像は、母親(はじめての他者)の代理を形成するとみられる。だから乳児の鏡像との最初のに認知された関係は、母親との〈性〉的な関係をなしている。(後略)(Cited in p.95)

「母親」ならびに「母親との〈性〉的な関係」を最重要のものとみなす点でも、「わたしたちが『現実』とよんでいるものは、『幻想』を媒介にして認識された事実であるか、行為によって生まれた『幻想』であるか、のいずれかである」(全著作集13「情況とはなにか」三五一ページ)とする点でも、[吉本隆明と]ラカンとの近接を見ないわけにはいかない。ここにいう鏡像(という他者autreとの)関係は、「像*3」との関係であるから「想像的なもの」と呼ばれるが、それは、「自己幻想」と「対幻想」とが分かちがたく錯合していることを示している。この想像的関係を両断して、母子の「近親相姦」を禁じる命令の言葉もしくはこの言葉(規範)を発するもの、それが「父親の暗喩」――「父の名」――であり、この次元は、鏡像的他者との相違を強調するために大文字でAutre(大他者)と書かれ、「想像的なもの」に対して「象徴的なもの」と呼ばれる。
たとえば子供が母親に何かを頼むとしよう。「お母さんはいいけどお父さんはどういうかしら」といった言葉が返ってくることがある。このとき母親は「父の名前において」話している。家の「敷居」のような限界・境界地帯で、家族のなかでは許されることも、社会では許されないことを示唆している。言い換えると、「対幻想」と「共同幻想」との分かちがたい錯合を示しているのだ。
ハンナ・アーレントのような思想家に対して、「労働」「仕事」「活動」を、あるいは「暴力」の諸様態をあまりに毅然と分かちすぎるとの批判がつきつけられたのと同様に*4、吉本に対しても「幻想」の三つの水準をあまりにもはっきりと分断しすぎるとの批判がつきつけられたことがある。けれども、「原生的疎外」はこのような三重の「幻想」の領域であり、三重の「幻想」は分かちがたく絡み合っているのだ。(後略)(pp.95-96)
また、

(前略)「疎外」と「表出」との関係を見ておこう。「表出」について、吉本はたとえば、「個体が〈そこに存在する〉ことの自己関係自体、自己了解自体の心的な表出」(『心的現象論序説』二一七ページ)と書いている。ここでは、「疎外」されているというずれ――関係――が同時に、自己と一致しえない「自己疎外」、すなわち「自己外化」(Ausserung)、「表出」を惹き起こすとされている。とすれば「原生的疎外」はそれ自体が「表出」であり、「表出としての言語」である。では、何が表出されるのか。異和である。さまざまな異和の一つを「社会的な矛盾」と呼んで、吉本はこの過程を語っている。

社会的な矛盾は、意識のしこりをあたえ、しこりが意識の底までとどくと、意識は何かの叫びのようなものを自発的に表出する。 (全著作集5「詩とはなにか」一六三ページ)
(p.97)