「刹那」(メモ)

斎藤慶典*1「時空を超えて飛翔する井筒哲学」『本』500、2018、pp.22-23


斎藤慶典氏が『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』という井筒俊彦論を上梓したことを知ったときは軽く吃驚した。
少しメモ;


(前略)しばしば私たちが考えるように、時間は過去から現在を経由して未来へと向かって連続的に流れてゆき、そうした時間の中で多様に変化しながら世界という或る同一なものが存続していくのだろうか。そうではない。時間は非連続で、そのつど全て――すなわち、世界――が一挙に生起しては失われるのだ。過去も現在も未来も、およそ何らかの仕方で存在するかぎりの全てはこの「そのつど」の内に(のみ)存在するのであり、したがって、言葉の厳密な意味で「ある=存在する」と言えるのはこの「そのつど」以外ではない。連続的に見える先の時間も「そのつど」そのようなものとして姿を現わすのであり(そのようであることが、私たちが生きてゆく上で好都合だからだ)、そうである以上やはり「そのつど」のものでしかない。すなわち、それは非連続なのだ。
私たちの常識に反するこの見解が、実は洋の東西を問わず古今の優れた思索者たちによって思考されてきたものであることを、井筒は説得的に論ずる。7世紀初頭にムハマンドが出る以前の初期イスラーム*2がすでに、この現実を時間的にも空間的にも互いに非連続的で・単に隣接しているに過ぎない「原子」として捉えていたし、4〜5世紀頃世親(ヴァスバンドゥ)によって体系化されたインド仏教唯識派の「刹那滅」(この世界は一瞬ごとに生じては滅することを繰り返す)は有名だろう。ほぼ同じころ中央アジアで成立したとされる華厳は、その「刹那」の在りようを「挙体性起」として捉える。すなわち、「一挙に全体――全て――が生起する」のであり、かつそれは「刹那」に失われるのだ。これを17世紀フランスの哲学者デカルトは、「連続創造説」として展開した。今世界が存在することは、その世界が次の瞬間にも存在することを何ら保証しない。にも拘わらずその次の瞬間にも世界が存在するなら、その瞬間にも神は世界を一から創造したのであり、斯くして神はそのつどごとに全世界を創造して止まないのだ。
わが国の鎌倉期にあって曹洞禅を起こした道元は、これを「前後際断」と唱える。一本の薪は「前後ありといへども、前後際断せり」(『正法眼蔵』)。「前」の薪と「後」のそれの間は「際断」されており、両者は別の薪なのである。それは「刻一刻、新しく薪である」のだ。世界は、そのつど新しいのである。同じことを20世紀ドイツの哲学者ハイデガーは「瞬間=瞬視(Augenblick)」の一語に集約する。それは「将来に先駆けるという仕方で過ぎ去った全てを現に存在する」という「ある=存在する」ことの固有にして本来の様態なのである(『存在と時間』)。これら古今東西に亘る思考の内で井筒が時間論の文脈で直接言及していないのはデカルトハイデガーだが、西洋中世スコラ哲学(前者はこれなしに考えられない)に造詣が深く、かつ言語の哲学者として絶えず後者に注目して止まなかった彼が、両者の思考の内実を知らなかったはずがない。現に、今見た如く、時間に関わるこれらすべての思考の内実は、殆どが完璧と言ってよいほどに重なり合っている。(後略)
存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)

存在と時間 下 (岩波文庫 青 651-3)