「構造」など

合田正人吉本隆明柄谷行人*1第1章「思考の地殻変動」II「ウェットな構造」では、数学者、遠山啓のテクストが参照され、主に柄谷行人の思考における含意が考察されている。
遠山は「構造」を説明するために「しばしば「建築」の隠喩を用いている。例えば、


構造という概念は、たとえば、建物にたとえられます。建物は、むかしからあったわけではなくて、人間が建てたものですが、建物を建てるまえには、まず建築材料をもってくるわけです。建物をつくる敷地へ建築材料を集めてくる。そういう状態のときは、まだ集合だといっていい。おたがいになんの関係もない。ところが、建築材料を組みたててくると、その建築材料のひとつひとつのあいだに関係がでてくるわけです。(……)*2つまり、ひとつひとつの集合の要素のあいだをなんらかの関係で結びつけるわけです。そうすることによって建物ができあがる。数学でいう構造とは、そういうものです。
(『遠山啓著作集 数学諭シリーズ0 数学への招待』七一‐七二ページ)
(Cited in p.50)
遠山は「「構造」を「位相的構造」「代数的構造」「順序的構造」の三つに分類している」(p.51)。『数学への招待』に曰く*3

位相的構造とは、その相互関係が、かんたんにいえば、”遠い、近い”の関係である。

任意の二つをもってきて、たし算でくっつけると、第三のものがでてくる。明らかに相互の関係がでてくる。こういう相互関係をもったものを代数的構造といいます。

たとえば、1、2、3、4,……という自然数あるいは整数というものは、たんなるものの集まりではなくて、大小の順序があります。したがって、これはそういう意味では順序の構造である。
合田氏曰く、

「構造」を三つに大別しながら、遠山はいくつかの重要なことを付言している。第一は、「こういったもの[三種の構造]に限定しないと、あまりにふろしきを広げすぎると、始末がつかなくなります。しかし、将来、数学が発展し、あるいは、ほかのいろいろな科学が発展すると、必要におうじて、また、この三種類にはちょっとはいりそうもないようなものがでてくる可能性もあります。そういうものがおそらくでてくるでしょう」(同一四〇ページ)と。新たな種類の「構造」の登場、「構造」の観念の刷新の可能性を予告していること。
第二は、「構造」に加えて「発生」の問題を重視していること。その際、遠山は、ジャン=バティスト・ラマルク(一七四四~一八二九)の発生論を「構造なき発生主義」、ドイツで生まれた「形の認識論」たるゲシュタルト理論を「発生なき構造主義」と呼び、これら二つの極端を綜合した。その際、名著『構造主義』(一九六八年)の著者で、「すべての発生はある構造から出発してほかの構造に達する」ことをめざした発達心理学者ジャン・ピアジェ(一八九六~一九八〇)*4に依拠するとともに、さらにピアジェの理論をサイバネティックスの提唱者ノーバート・ウィーナー(一八九四~一九六四)のいう「動的体系」に近づけている。(後略)
(p.52)

(前略)遠山は、集合を「完全に限定されているものを入れている閉じた袋」にたとえたリヒャルト・デデキント(一八三一~一九一六)に、カントールが「私は集合とは底なしの深淵だと思っています」と応じたことを紹介しながら、「カントルは積極的に新しい無限集合をつぎつぎにつくりだしていくことに興味をもっていた」(『数学諭シリーズ6 数学と文化』一二八ページ)と評価している。興味深いことに、物理学者のニールス・ボーア(一八八五~一九六二)も来日時に、量子力学について「底なしの深淵(bottomless abyss)と言っていた。吉本はまさにこの深淵を覗き込んだのだろう。いや、柄谷の「内省」もそうだったのだ。
カントールは「構造化」「構造」そのものが「脱構造化」「解体」であることを示した。「ディコンストラクション」(脱構築)の淵源の一つがここにある。たとえば柄谷の師のひとりであるポール・ド・マン(一九一九~一九八三)は、「テクストそのものがディコンストラクションである」といった意味のことを言っているのだが(『読むことのアレゴリー*5一九七九年)、柄谷自身お仕事が、遠山の描いたプログラムと決して無縁でなかったことは、『隠喩としての建築』の次の引用からも明らかだろう。

アレクザンダー*6の仕事は、その他の領域でなされてきた仕事と平行している。第一に、それは数学的な意味で、構造主義的である。フランスのブルバキ・グループによって創始された構造主義によれば、すべてを一度集合に還元し、その要素の関係を「構造」として見る。この構造は、三つに分けられる。代数的構造、順序的構造、位相的構造。ヤコブソンやレヴィ=ストロースによって知ら得るようになった構造主義は、主に、代数的構造(数)にかかわっている。ここでアレクザンダーがやっているのは、セミ・ラティスのような、集合の順序的構造である。 (定本2『隠喩としての建築』六二~六三ページ)
(pp.54-55)