電車は異界?

広坂朋信「心霊スポット――通過儀礼と神話的暴力」http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-14.html *1


この中で、広坂さんは次のように述べている;


心霊スポットは、どこかに現実にあるとされながらも、この世のものならぬ死霊や神霊の支配する異界と地続きになっている場所だと思われている。それは本来、あの世であり、死後の世界=他界でなければならないはずである。
 他界がこの世と地続きの異界に転化することについては吉本隆明の指摘がある。
「村落共同体の共同幻想は、ハイデガーのいう「その死に向って存在している」現存在の時間性を、空間の方に疎外した。それだから〈他界〉は、個体にとって生理的な〈死〉をこえて延びてゆく時間性にもかかわらず、村境いの向う側の地域に〈作為〉的に設けられたのである。
 ほんらい村落のひとびとにたいしては時間性であるべき〈他界〉が、村外れの土地に場所的に設定されたのは、きっと農耕民の特質によっている。土地に執着しそこに対幻想の基盤である〈家〉を定着させ、穀物を栽培したという生活が、かれらの時間意識を空間へとさしむけたのである。」(吉本、『共同幻想論』角川文庫)
 引用した文章の前段を、そこで吉本には使われていない異界という言葉を使って言い直せば、次のようになる。すなわち、生きているものの世界はどこまでもこの世であり、あの世(他界)ではない。あの世にいくには死ぬほかはない。他界はあくまでも死んだ後の世界である。この世とあの世の境界は、死ぬ前と死んだ後という時間的な区分である。この時間的な区分を村境のこちら側と向こう側に転化したのが異界である、ということになる。
 つとに知られているように、吉本の『共同幻想論*2は、柳田国男の『遠野物語』を主な材料に、「人間にとって共同の幻想とはなにか」という問いに応えようとしたものであり、引用した文章も『遠野物語』の山中異界譚、幽霊譚、棄老譚を考察した「他界論」からである。
 一読すれば誰しも、近代化の浸透したとは言い難い明治時代の村落社会の成員の意識を、不可逆性、単線性を特徴とする近代的な時間概念をツールにして批評することに妥当性があるのかどうか気になるところだろう。
共同幻想論

共同幻想論

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

吉本は「近代化の浸透したとは言い難い明治時代の村落社会の成員の意識を、不可逆性、単線性を特徴とする近代的な時間概念をツールにして批評」したというよりも、仏教や基督教といった世界宗教の時間性を民俗宗教に当て嵌めたというべきだろうか。勿論、世界宗教と近代性というのは無関係なものではない。また、「単線性」はともかくとして「不可逆性」は「近代」の産物というわけではないだろう。覆水盆に返らずみたいな意識は近代以前からあった筈なのだ。これに関しては、アルフレート・シュッツの「世界時間(world time)」或いは「宇宙時間(cosmic time)」についての議論も参照されたい(「多元的現実について」、『生活世界の構造』)*3。勿論、永遠回帰として、或いは原型の反復として意識されるマクロな時間意識が重要であることは言うまでもないけれど*4
Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

Collected Papers I. The Problem of Social Reality (Phaenomenologica)

Structures of the Life-World (Studies in Phenomenology and Existential Philosophy)

Structures of the Life-World (Studies in Phenomenology and Existential Philosophy)

また、

私たちの大多数は時間について、過去から現在を経て未来にいたる時間の流れは不可逆的であるとイメージしている。各個々人においては個性的な時間イメージを内に秘めているとしても、私たちの社会生活は時間の不可逆性、単線性を基準にして営まれている。乗り遅れた電車を呼び戻すことはできないし、期日までに支払ができなければ督促状が舞い込むことになる。
 ハイデガーが「その死に向って存在している」(『存在と時間』)と人間の在り方を規定するときの時間概念も、不可逆性と単線性を基本にしている。それは哲学者だけの特殊な時間ではなく、私たちの誰もがそれに追い立てられて生活している近代社会の標準時間である。だから「ほんらい」「〈他界〉が」「時間性であるべき」なのは「村落のひとびとにたいして」ではなく現代社会に生活する私たちに対してなのだ。そうすると引用した吉本の文章の後段はもとの文脈から切り離して次のように読み替えられる。
―――ほんらい近代社会のひとびとにたいしては時間性であるべき〈他界〉が、町外れの土地に場所的に設定されたのは、きっと都市民の特質によっている。土地をもたずそこに対幻想の基盤である〈家〉を定着させず、労働時間を賃金に換える生活が、かれらの時間意識を空間へとさしむけたのである。――
 多くの都市民の生活は、タイムカードに刻印された労働時間を換金することで成り立っている。単調であるにもかかわらず、やり直しのきかない近代的時間に支配された生活から離脱しようにも、土地(生産手段としての農地)をもたず、共同体的社会に加入していない都市の青年層には選択肢はあまりにも少ない。かつては定年まで勤め上げて退職金でローンを完済し郊外のマイホームで悠々自適の老後を送る人生設計にもそれなりのリアリティがあったのだろうが、バブル崩壊以後、それはむなしい夢物語となった。
 右肩上がりの未来がないにもかかわらず、じわじわと追いつめられながらも単調な時間を繰り返していかねばならない。それは近代的時間によって我が身をすり減らしていく経験である。祝祭的時間の到来が期待できないとしたら、残るのは時々自らをリフレッシュして毎日の単調さに耐えうる自分を維持するほかないではないか。
電車(通勤・通学用の電車)を舞台にした(伝統的な意味での)怪談というのは多いのだろうか。「都市民」にとって、電車こそが「他界」的な空間かも知れないと不図思った。住居でも職場でもない、住居がある郊外でもオフィスがある都心でもない、それらのにある空間。(伝統的な意味での)怪談はわからないけれど、電車の中で、日常的には善良な親、夫、労働者、教師、左翼、愛国者etc.である筈の人が、魔が差して、痴漢とか盗撮といった犯罪行為に奔ってしまうことも少なくない。勿論、魔が差したのではなく、悪徳ペンタゴンやら国家権力やらに呪われたと主張する人もいるようだけど、構造論的に言えば、それらが電車という空間の境界性(リミナリティ)に関係しているということは疑えないだろう*5