「視覚」から「聴覚」へ

貫成人ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』(青灯社、2007)からメモ。


(前略)『存在と時間*1におけるハイデガーは、存在者一般の存在の意味を明らかにするために、、われわれ自身のあり方を手がかりとし、現存在分析、実存分析に着手した。それはひそかな人間中心主義だ。
また、その途中においても、日常における現存在が道具連関を生きているとき、その道具連関に目配り(「配視」)していることが強調された。これは言うまでもなく、視覚的な比喩だ。
しかも、本来的なあり方の真相として明らかにされたのは、自分の足下が過去、現在、将来のすべてにわたって無に取り囲まれているという、現存在にとっての存在の意味だった。こうした現存在の真相は、無をまえにした不安としてあらわになる。不安はたしかに、確たる対象をもたない気分、情態性ではあったが、無を前にしている、という意味ではハイデガーがしきりに批判したデカルト的な「わたしの前にあるもの」に違いはない。
一方、『芸術作品の起源』において分析の手がかりは、現存在から芸術作品に移行した。芸術作品から立ち上がる世界と大地からは、開示(現前)と隠蔽(非現前)の相互貫通という存在の心理が見て取れる。けれども、それは芸術作品を見ている者にとって見えてくるものであり、そもそも、ハイデガーが、認識対象としての事物存在でも、『存在と時間』におけるような道具存在でもなく、芸術作品に注目したのは、そこにおいては、ふだんは単に生きられており、注意の対象とならない道具連関やそれを取り巻く歴史、決断、運命といった世界、またそれを支える大地があらわになるからなのであった。ここではやはり、開示(現前)と隠蔽(非現前)の相互貫通をあらわにするということが問題になっている。しかも、そもそもそこであきらかになることも、開示、現前という、視覚的な比喩、すなわち、芸術作品をまえにした者にとってなにが「見える」ということが問題になっていたのであった。
ちなみに、ハイデガーは、存在の心理が明らかになることを「ひらけ(Lichtung)」という言葉で表している。もとのドイツ語は「光(licht)」からきた言葉だ。ハイデガーの生まれ故郷であるメスキルヒは、ドイツ南方の「黒い森(シュヴァルツヴァルト)」とよばれる地域だった。深い森に覆われたこの地方では、森を歩いてきてふと木立がとぎれ、太陽の日がさすところを「ひらけ」とよんだ。何の気なしに暗い森を歩んできたときになにかがあきらかになる貴重な瞬間をさす言葉だ。だが、それにしてもそれは、光という視覚的な比喩や、明らかになるという認識への欲求を反映している。(pp.124-126)

これにたいして、ある時期以降のハイデガーは、聴覚的比喩をもちいるようになる。すなわち、われわれ人間には、存在の声を聞き取り、それに従うしかないと、ハイデガーは言う。(略)
視覚にくらべて聴覚は、それを聞く者にとってはるかに近しい感覚である。耳元で聞こえる声は、わたしのすぐそばでささやかれている。コンサートホールで聞くオーケストラの響きは、客席に座っているわたしを取り囲んでいる空気の震度であり、遠い舞台からやっと届くものではない。なにかの響きや反響は、空間全体を満たすものだ。ドイツ神秘思想を代表するヤコブベーメは、神による世界創造の一階梯として、言葉の響きがどこまでも遠く広がることを挙げた。声や、それによる言葉は、出所は一ケ所であっても、遠くにまで達し、あるいは空間を満たす。しかも、その声や言葉の出所がはっきり特定されなくても、その響きは遠くにまでおよび、耳を澄ませる者には聞こえるのである。
ハイデガーにとって、存在とは、この声や響きのようなものだった。視覚というものは、じつはわたしの方から見ようとする意志に従うものだ。見たくないものは見えず、それどころか、何も見たくなければ目をつぶればいい。けれども、われわれは耳をつぶることはできない。なにかが聞こえるとき、それは、そのなにかが声や音を発するときでしかない。(pp.126-127)