山内志朗『中世哲学入門』*1、第3章「存在の問題」へと戻る
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山田晶*2について。
山田晶は次のように述べる。「トマスとアウグスティヌスとのテキストに即した研究を進めるにつれて、私にはどうしても承服しがたいところがでてきた」。そのため、山田晶は多くの箇所でジルソン*3批判を繰り返すようになる(山田晶『在りて在る者』創文社、一九七九年、xxiii頁)。「ジルソンの最高傑作は『中世哲学の精神』であると思う。晩年のジルソンは奇妙なトマス解釈に傾倒しそれに凝り固まっていった。晩年に書かれた多くの著作は、いたずらに量のみ厖大にして内容の乏しいものとなっていったように思われる」(山田前掲書。xxiv頁)。ジルソンへの透徹した眼光による手厳しい評価は、存在を頭で知性的に理解しようとしていることへの批判ではなかったか。(p.103)
おそらく、アウグスティヌスを存在論の枠内でどう位置づけるということが問題なのだ。山田晶によるアウグスティヌス『告白』の翻訳を読むと、山田晶の人生とアウグスティヌスの人生が重なって見えてくる。そしてその翻訳書は何よりも名文で、アウグスティヌスの苦悩を伝えており、読む者の心を打つ。翻訳であることを忘れる名文だ。(p.104)
これに対して、「山田晶の立場は不可知論ではない」という(p.106)。そして、山田晶の「テーゼ」が引用される(ibid.);
アウグスティヌスの思想もトマス・アクィナスの思想も幾層に重ねられ、容易に思想的分類を許さないが、(略)前者は本質主義、後者は存在主義(エクシテンシアリスム=実存主義)と単純に整理されがちである。ジルソンは。神を「在りて在る者」として捉え、それが何であるか(本質)がわからないとしても、その純一たる存在からすべてが流出し、すべてを包含することを読み取ろうとした。
ジルソンにおける存在探求の始原は「存在の神秘」にあり、預言者モーゼに告げられた神の名「在りて在る者」において示され、それをトマスが「存在そのもの」と解釈した。ジルソンにとって、この「存在の神秘」こそがトマスの哲学探究の全体を取りまとめるものである。
(略)神の何性とは存在そのもの(ipsum esse)で、神は知性の彼岸にあるものである。本質とは自らを制限するようなもので、神は制限を持たないがから。本質を持たない存在そのものである。その本質が存在であるような純粋存在、この上もない存在者(maxime ens)なのである。
本質とは「~である」で、存在ということからその本質を知ることはできない。神の場合、存在と本質が同一であるから、「神とは何か」という問いに対して「神とは存在するところのものである」と答えればよい。
ジルソンの立場は、「表象の不可知論」と整理された。神に特定の述語を付与すれば、その主語=基体は制限を受けてしまう。神の何性は存在そのものであって、したがって神は知性を超えるものである。表象の彼岸にある以上、不可知である。不可知論は知性にとって麻薬のような魔力を備えたものだ。(略)
この不可知論はアナロギアによって部分的には乗り越えられ、神の存在は認識されない(esse Deu est igonotum)とも語られる。ジルソンの存在主義とは一種の不可知論なのだ。魂の眼差しは、神に向かうとき。無辺際の輝きによって跳ね返される。何ものであるということではなしに、何ものかでもありうる。同時にそのようにありうる存在が神である。(pp.104-105)
これに対して、
「エンス」(存在者)は、「エッセ」と「エッセンチア」から合成されている。エッセとは、それを分有することによってエンスが「エクシステレ」existereするものであり、エッセンチアはこのエクシステレするエンスの「何であるか」を規定するものである。(『在りて在る者』一八二頁)
(前略)山田晶はエッセを者が現実に存在していくための器であると説明もする。漆の椀に料理が盛られ目の前に供されている姿を考えてもよいだろう。存在ということは「器」と考えてもよいし、「舞台」と考えてもよい。(略)
エッセは器としてある。しかも空っぽの器ではない。海の如く広大でしかも充足した〈器〉なのだ。素材として様々なものになりうるが、具体的な姿をとった具体的相がエッセンチアである。具体的な特定の姿がエクシステンチアであり、それらはすべて一体のものであり、エッセンチアリスムとかエクシステンチアリスムなどというものがあるとは思えない。(p.108)
エッセンチアを「本質」、エッセを「存在」、エクシステレを「現実存在」という習慣を踏襲すると、「本質は存在によって現実存在する」と記されることになるが、このままでは私にはほとんど理解できない。(略)エッセンチアもエッセもエクシステレも日本語にはならず、日本語になったものは元の姿とはずいぶん変わったものになっている。(略)ラテン語のハビトゥスを日本語のハビトゥスに変換する装置(学習過程)が必要なのだ。(p.109)
(前略)エクシステレする場所がエッセであるということは、エッセを舞台として考えるとよい。エクシステレするとは、スポットライトが当たり、いまここに登場人物が演技していることである。エッセンシアは、登場人物の役回りとして考えれば、ある登場人物は、舞台の上でその人物を演じ、今ここに表れている瞬間が「花」なのである。
桜の花にたとえれば、桜は一年の間ずっと桜であり続けながらも、晴の満開のときにエクシステレするのである。エッセとは場所であり、エッセンチアとはそのなんであるかがすべて書き込まれたシナリオであり、エクシステレとは現実的瞬間的な顕現の姿なのである。(p.110)
*1:Mentioend in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2023/06/12/094109 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/07/104401 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/16/120515 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/20/102203 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/07/27/143140 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/07/161627 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/14/171449 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/22/132021 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/09/05/112558 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/09/19/111639 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/10/12/150133 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/12/29/115452 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/01/04/182156 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/01/08/173943 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2025/01/12/110254
*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080401/1207027610 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2024/08/07/161627
*3:Étienne Gilson. See eg. https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%89tienne_Gilson