「三つの顔」

承前*1

山内志朗『中世哲学入門』から。
唯名論の三つの顔」について。
先ず「神の絶対的能力」について。


「神の絶対的能力(potencia Dei absoluta)を認めることと、存在論的意味での唯名論を採用することには互いに極めて緊密な関係にあり、両者は表裏一体となりノミナリズム的な思想の明確な特徴をかたちづいくっている」(小林公『ウィリアム・オッカム研究――政治思想と神学思想』勁草書房、二〇一五年)と言われるように、神の絶対的能力は唯名論において不可欠な要素である。(p.85)
「絶対的」について;

「絶対的(absoluta)」というのは中世哲学では決定的に大事で。しかも唯名論を理解する場合にも最も重要な概念である。現在では「絶対的」は他に並ぶものがない、他との比較・対立を絶しているということで、最も強大な権力にふさわしい概念だが、中世では他のものから切り離されたそれ自体の在り方を指す。絶対的な事物(res absoluta)とは強力な事物ではなく、他の事物から切り離された存在である。ロビンソン・クルーソーこそ絶対的な存在である。(後略)(pp.87-88)
「抽象的認識、直観的認識」について;

抽象的認識と直観的認識という枠組みは、ドゥンス・スコトゥスが提出したものだ。現前する事物に対して持つ認識が直観的認識であり、事物が不在の状態で成立しているのが抽象的認識である。(略)アリストテレスとトマスの認識論の枠組みは因果的に媒介された過程を重視し、その過程を追跡することが認識過程の説明となった。その場合、感覚的なものから知性的なものへの移行において必ず落差が生じる。その落差をどのように媒介するのかがその説明の要となった。
スコトゥスの認識論においてはアウグスティヌス的な枠組みを前提し、因果的に認識過程を再構成するよりはむしろ事物が目の前にあるかどうか、人であれば対面的な出会いになっているかどうかに焦点があった。神学的な話題が基礎となっていて、「至福直観(visio beatifica)」へと方向づけられる傾向が強かった。
アリストテレス―トマス的認識論においては可能的形象や可知的形象といった因果的な媒介が重視され、その過程を連続的に説明することが目指されたが、スコトゥス的な直観の枠組みでは媒介による因果的再構成よりは、対象が現前しているか否かが問題となった。つまり、対象との直接的な関係性が重視されたのである。可知的形象への批判が十三世紀後半以降に強くなっていたが、それは可知的形象が認識の過程を飛躍なく説明することにあまり寄与していないという論点を踏まえたものであった。イスラームから入ってきた光学の枠組みは、錯覚、残像、分光など伝統的な因果論的認識の枠組みでは説明できないことを踏まえて、新しい認識論を形成しようという意気込みに対応するものだった。認識における因果的な媒介の除去が直接的認識論の根幹をなし、これは唯名論の特徴である媒介の否定と軌を一にするものだったである。オッカムにおいて、可知的形象は否定され、代わりにハビトゥスという習慣的能力が置かれることになった。
抽象的認識においては、知性は個物が不在のときも実在しないときにも当の個物を表象できるということが重要な特徴である。また可知的形象という道具は不必要であり、認識の過程を何ら説明していないと考えた。オッカムにおいては、可知的形象は不要であり、その代わりに提示したのがハビトゥスだったのである。(pp.85-87)
「普遍の問題」について。

普遍の実在性ではなく、普遍を個体化する原理の問題であり、普遍と個体化の原理との間に区別を認めるか、個体化の原理を不要とするものが唯名論であった。
人々は唯名論ノミナリズムという名称によって、名は体を表すということを信じて、名前にふさわしいものとして名称主義的に唯名論を捉える。唯名論ほど名前にふさわしくない思想潮流はないのかもしれない。唯名論という名前にふさわしいものが存在しておらず、にもかかわらず唯名論という名称が流通しているとしたら、唯名論的に流通しているとも言える。(p.89)