立入家

熊倉功夫後水尾天皇*1から;


幕府がその*2手がかりとしたのは上御倉職にあった立入家である。御倉職というのは、長橋局とともに禁裏の経済にかかわる役職で、上下に分かれ、上御倉職に補せられていた立入家の史料によれば、「御下方御賄、肝煎任り来り候」とあって、禁裏からの下賜米など支払い方の経済を管掌する職であった。立入家の仕事が、このように禁裏と外部の接点になるところから、十六世紀の動乱期には、立入家は禁裏と戦国武将との連絡役のような役目もはたしている。とたえば立入宗継*3は禁裏の意をうけて織田信長に上洛をすすめるなど政治的な活躍を見せた。ところが、その後継者立入卜斎は、関ヶ原の合戦に際して、西軍大山城主石川備前守光吉をかくまって家康より叱責をうけて自殺。立入家の御倉職は罷免された。その後、幕府が開かれた慶長八年(一六〇三)に至って、立入家は雑掌を勤める勧修寺家を通して嘆願し、ふたたび御倉職に復した。そのときのことを立入康善は「公儀へ色々御理をなされ、御かげを以て親子三人還住致し候」(『立入家文書』)と述べ、勸修寺家のお蔭をもって御倉職に戻れたのは、公儀すなわち幕府のお許しによるものであるとし、本来は禁裏の役人である御倉職の任免権が、すでに幕府にあることが明らかにされている。その結果は、立入家では御倉職という職分のほかに、その任務を、「拙者の家をば昔より御料所方の目あかし」とし、また「我等家は御料所方之よこめ(横目、監視人)にて候」と述べているように、自らを禁裏御前における幕府の目明しであり横目と位置づけることになった。
実務的に見ても、立入家は板倉京都所司代支配下にあった。
(後略)(pp.53-54)