「沈黙」に抗して

承前*1

佐藤信夫「隠喩と諷喩の書物」(in 『叢書 文化の現在10 書物―世界の隠喩』岩波書店、pp.91-137、1981)


「諷喩」の動機について語られる。


こんにちの星空にはなぜ大熊座、小熊座、オリオン座などばかりが描かれているのか。それらの布置を部分的にあるいは全面的に再編成して、因幡の白うさぎ座や桃太郎座などを投影してもいいいはずだ……と思いついたとき、夜空を眺めていた少年は新しい諷喩を書きはじめるだろう。多くの書物はそれぞれに新型プラネタリウムの試作であった。
そして、一見無造作に星をばらまいたような夜空を、乱雑なままに悠々と眺めていられず、星座の諷喩や数学の諷喩をそこに投影せずにはいられない私たちを動かしている複雑な因子のうちのひとつは、あきらかに恐怖である。
「この無限の空間の永遠の沈黙が私をおびえさせる」(『パンセ』*2L・二〇一)……とりとめない空間と時間のなかを平然とただようのは、私たちには耐えられぬことであった。私たちは、のっぺらぼうな世界に、めりはりを与えずにはいられない。ものがたりを投影せずにはいられない。私たちは、体臭の感じられる部屋をほしがり、角をまがるたびに景色が変わる街をつくりたがる。
きっと、とめどない概念の流動への恐れが私たちを定義好きにする仕組みと、レベルはちがうが妙によく似た事情がそこにある。安心感への願望が、さまざまの諷喩としての書物を書かせ、読ませる。
私たちをおびえさせる世界の流動を定着させるこころみとしての諷喩が、「聖なる書物」を生んだ。書物一般のもつ――こんにちでも消滅しきってはいない――威信は、すべての本がいくらか聖書であることをしめしているだろう。聖なる書物は私たちに安心を与えてくれる、聖なるフェティッシュとなる。(pp.132-133)
「とりとめない空間と時間」、「とめどない概念の流動」、「私たちをおびえさせる世界の流動」。これはカオス(渾沌)と言い換えられるだろう。
さらに、「所有」という問題系が出てくる;

理解を越えた世界を理解可能なものがたりとしてとらえることは、定着し、所有するたくらみの一種であろう。安心をもとめるための所有のこころみである。
「ハウ・トゥー」本と呼ばれるもっとも魅力的な種類の書物――たとえば旅行ガイドブック――は、あきらかに世界の一部分を所有しようとする。
世界を定着し、保存し、要するに封じ込めるくわだては、権利証としての書物の映像を生む。それによって人は知をとじこみ、所有し、それを読まずにおくことさえできる。忍者の秘伝の巻物が子どもの胸をときめかせる。(p.134)
「可変型の諷喩」或いは「造物主の真似」;

ところで、諷喩である書物は、それが定着しようとたくらんでいる世界と、たしかにホモロジーの関係にある《はず》であった。本は世界に似ているはずである。そこから、私たちの奇妙なフェティシズムホモロジーの倒錯現象もまた生ずることになる。
本が諷喩の組織を世界へ転移するものであり、そのホモロジーの原理が必然であるとすれば、その諷喩の組織を組みかえることによって世界を変様させることができる……と、私たちは信じていいのであろうか。(略)
本の編成を自由に変更することによって、私たちは世界の組織を支配することができる……という倒錯したホモロジーの原理が、じっさいに、ある種のすこぶる特殊なたぐいの本を生み出した。可変型の諷喩である。それは、定着することによる所有をさらに一歩進めて、自由に操作しうることによる所有をめざす。
古来、人間たちは、「易象」、「タロー・カード」などの、自由な本を持っていた。可変的な易の卦を、タローの配列を、人々は世界の諷喩として読んできた。多くの変様する記号を、じっさいに森羅万象をあらわす占いとして諷喩化してきたのであった。世界を理解可能なものにするというより、世界の局面を操作する、それらの」自由な本は、いわば不逞きわまりない、造物主の真似であった。それがすこぶる不謹慎な、神の模倣であることを承知していたからこそ、それらの自由な本は、いつも、きわめて恐れおおい操作としてつつしみぶかくあつかわれるか、さもなければ、さりげない遊びのかたちをとったのであろう。「百人一首」が自由なモビール型の歌集であるのと同様に、双六の局面もまた変様する本である。そしてパスカルの意図とは別に、いまとなっては『パンセ』もまた共有されるテクストとして、シャッフル可能なゲーム型の諷喩として読まれても不平の言えないこととなったようである。(pp.134-136)