「かれの尊敬は、軽蔑よりも侮辱的で、恥辱的である」

「古代人は神話を信じたか」*1の余白への落書き;


(前略)「双面像」的存在であるソクラテスギリシア思想史において、最初の近代的複雑さ、最初のペシミスティックな分離、最初の謎を体現している。(略)ソクラテスはかれの実例によって、美は常にすばらしいものであるとか、善と真の発光であるというのを否認し、外見は常に本質の真実な現れであるというのを否認する。肉体的醜さと道徳的美しさとの交錯を確立するソクラテスの仮面は、人間に自分の現代性を教えてくれる。外面は雄山羊のように醜く、内面は神のように賢いソクラテスは、その斜視と、かれ自身の神話のかげに隠れて、善=美という公的、自己満足的、公教的な方程式を離してしまう。かれの容貌はかれの思想を裏切り、かれの言辞は二重の意味に解され、かれの使命を巧妙に塗り隠している。かれは偽って明瞭なのであり、カリクレスの妙技やエウテュプロンの偏狭な信心ぶりに感心するふりをし、各人の心に存している永遠のクセノフォンを欺くために、伝統を尊重するふりをする。かれは愚者どもをつるつるの氷の上につれて来てはその連中が転がるのを見て楽しんでいる。かれは偽りの純真さをよそおって、人が仕掛けた罠にはまるふりをする。しかしそれは巧妙なのだ。なぜならかれはその計略よりも狡猾なのだから。イロニストは、意図せずして、かれ自身の犠牲者を慣れさせてしまう。犠牲者たちはソクラテスの裏をかこうとするにつれて、かれはそれを避け、最初のカムフラージュをカムフラージュする。たとえば、かれは相手の注意を目に見える罠にひきつけておいて、その隙に別の場所に、目に見えない罠を仕掛けておく。イロニー的意識は待伏せしている人たちを、無限にだますことができる。動く被造物であるソクラテスは、その環境に紛れてしまい、環境の色や偏見をとり入れたり、忍耐づよく環境におもねったりする術を心得ている。しかし澱んだ水ほど悪い水はない。 かれの尊敬は、軽蔑よりも侮辱的で、恥辱的であることを理解しよう。だれもソクラテスの慣習順応主義的変装を見破れないように、パスカル的誠実さの暗号を解読する者はだれもいない。絶えず「正から反への逆転」が、次に反から正への逆転があるのである。しかしわれわれのようなクセノフォン的人間は、正であれ、反であれ、それにしがみついているだけである。学識をひけらかす、非弁証法的なまじめ人間は、ある一時的な契機を停止させるが、継起する言語の深遠な曖昧語法と、その言語を結びつける動きとを区別することをしない。パスカルの自称矛盾とは、真理をこのようにアイロニー的に動かすこと、として説明づけられよう。『パンセ』におけるどんな肯定命題も、それ自体として、あるいは次の肯定命題との関連において考察するに応じて、意味は変わってくる。すなわちパスカルは、デカルト的平面では、「欺く力」、卑俗な感覚論、また修辞学に対して否定(non)を発するが、神秘的平面では、「機械仕掛」を認め、空虚についての偏見に逆もどりし、「賭」においては、説得術に後退する。しかしここで知っておくべきことは、習慣と想像力自体は、もはや卑劣な順応主義には帰結せず、キリスト教の祈りに帰結することである。かくして、自明で、一義的で、絶対的に単純なものは何もない。人間は神と同じく「隠れて」いる。人間は魂であるとともに肉体であり、天使であるとともに動物であり、二つの無限の中間であり、アルファとオメガとから同じ距離だけ隔たっている。なぜならすべてはその二つの間にあるからである。たとえば、欺く力は常にわれわれを欺くとは限らない。ちょうど逆にキリスト教の特性を示すものが、常に異論の余地なきものであるとはいえないように。それこそが信仰と仲保者の存在理由である。(ウラディミール・ジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』[久米博訳]、pp.160-162)
パンセ (中公文庫)

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