「ギャンブルの哲学」by 土屋恵一郎

白石圭「カジノへの屈折した感情を解明する――能楽から考える「ギャンブルの哲学」 法哲学者・能楽評論家、土屋恵一郎氏インタビュー」http://synodos.jp/intro/19270


土屋恵一郎氏*1は明治の学長になっていたのか。
少し切り抜き。
「カジノ」と「日本人の運命観」の問題;


(前略)カジノはアメリカではもちろん、海外ではおおむね認められています。日本では、昨年12月にカジノ設置を推進する法案が可決されたばかりで、今後カジノを本当に設置するかどうかが問題になっています。これも法律が屈折している例ですよね。なぜカジノが問題になるのか。それは日本人の価値観の問題なんです。もっと言うと、日本人の運命観の問題だと思うんです。ギャンブルはまさにチャンス、運の問題です。日本人が運命をどう考えるかが、日本のカジノへの抵抗感に表れていると思うんです。

私は能楽をヨーロッパ演劇と比較した評論もしているのですが、ヨーロッパ演劇というのは運命の劇です。自分がどんな悲劇に見舞われようと、運命に対する愛情を感じる。そしてそれがプラスであってもマイナスであっても、自分が生きていくためのエネルギーとして感じる。中世の宗教劇では、最後に「デウス・エクス・マキナ」(機械仕掛けの神)が降臨して、運命的にストーリーを終わらせるという演出が典型になっています。つまり、すべては神が定めたことであり、それは人間の力ではどうすることもできない、ということを確認して終わるんですね。

一方で日本の演劇には、神が天から降臨してくるということはありません。能においては、神は人間の姿をして橋を渡ってやってきます。これを「シテ」というのですが、シテは過去の自分の苦しみ、もうすでに起きてしまったことをただ語って、帰っていくんですね。能における神はストーリーを終わらせません。そのため日本の場合は運命をあまり主題化してきませんでした。自分ではどうにもならないことを受け止める、ということを考えないのです。「しかたがない」とは思うけれども、「これは神が決めたことだから」という巨大なドラマとしては捉えない。

この世界観の違いが、ギャンブルに対する態度にも表れています。カジノに対して日本人が恐れを抱くのは、運命と向き合う姿勢がないからだと思うんです。運命が決まって、それを受け入れた上でどうやって生きていくのかという思想がないんですね。つまりヨーロッパのような、運命と戯れることの楽しみ、あるいはセンスのようなものが日本人には欠けているんです。日本でベンチャー企業イノベーションが活発でない理由も、そこにあると思います。

そもそもギャンブルと言えばパチンコや競馬などは認められている。それなのにカジノは認めないというのはおかしいです。法哲学というのは、このように法律だけでは議論が行き詰まる問題を、人間が持っている複雑性のなかでもう一度考えるということなんです。そこで新しい解決方法や説得の方法が見えてくるかもしれない。

ちょっと話が雑かな。しかし、「カジノ」解禁*2を巡っては、反対派にせよ賛成派にせよ、つまらない議論ばかり目にしていていたので、それらよりは全然ましであって、少なくとも議論の出発点としては有益であろう。
さらに、人間存在の偶発性の話からパスカルの話へ;

これは私の友人で人類学者の中沢新一さんが言っていたことですが、人間というのはニューロンの組み合わせによってつくられてきた。そしてこのニューロンの組み合わせというのは完全に確率の問題で、ギャンブルなんです。ほかにも男に生まれるか女に生まれるかというのもギャンブル。ホモ・サピエンスがここまで高度な知能をもったのも、たまたま運が良かったから。


もっと分かりやすく言えば顔つきだってギャンブルです。どんな容姿で生まれるかは自分では決められないですよね。でもそれは受け入れるしかないじゃないですか。受け入れた上で頑張るんですよ。人生とはそういうものです。そしてそれはカジノのギャンブルでも同じなんですよね。

私はギャンブルの哲学について考えたいんです。実は過去の哲学者もギャンブルについて語っています。フランスの哲学者のパスカルは『パンセ』という本のなかで、神を信じるか信じないかの賭け率のことを述べています。彼は、神が存在するかどうかはともかく、神はいると信じた方が得だと言っているんです。もし神がいなかったとしても特に失うものはないのだから、それであれば生きる意味を得るために神を信じたほうが期待値は大きい、という論理です。

つまりパスカルによれば信仰の問題もギャンブルであるわけです。神がいるかどうかは分からない。その上で信じるかどうかを決断しなければならない。そこで人間の意志が問われる。パスカルが面白いのは、神が存在するかどうかの話はしていないところです。神を信じるか信じないか、どちらを選択したほうが賭け率が高いかという話だけをしているんです。パスカルはギャンブルの哲学者ですよ。

パンセ (中公文庫)

パンセ (中公文庫)

法哲学」と「能楽」との関係。多田富雄*3が言及されている;

――先生は先ほど言っていたように法哲学以外に能楽の評論をされていますよね。先生の評論のなかで、能楽セクシャリティの観点から語っているものがありました。そして先ほど法哲学セクシャリティの話をしていただきましたが、もしかしたら法哲学と能を両方やっているのは、セクシャリティという一貫したテーマにもとづいているからなのかな、と思ったのですが。

それはよく聞かれるんですが、いつもこの話をします。多田富雄さんという免疫学者がいました。東京大学農学部の先生で、もう亡くなられたんですが、彼は鼓(つづみ)の名手でもあったんです。生前、「免疫学と能にどういう関係があるんですか」と聞いたら、彼は「関係ないからやるんだ」と言いました。逆に関係があるんだったらやらない、と。私も同じ考えです。法哲学と能をやっていることに理由なんかないんです。理由があるとしたら、面白いから。でもこれは学問も同じだと思うんですよね。学問も面白くやるべきだと思います。

私には「なぜ」という問いかけがないです。デイヴィッド・ヒュームという18世紀のスコットランドの哲学者がいるんですが、彼がフランスに出かけた時の記録が残っています。彼はこう思ったそうです。フランス人というのは、「なぜそれがあるのか」と理由を問うことはなかった。「いかにそれがあるのか」ということしか聞かない。

これは重要な問題なんですよ。18世紀以降の思想においては、根拠を問うことではなく、いまのあり方を問うことがテーマになっているわけです。我々がどのようにして生きているのかは分かる。しかしなぜ生きているのかと聞かれても、生まれてきたから生きているとしか答えようがないですよね。だから「いかにして」と聞くことこそが、フランスでは重要なテーマになっていた。フランスはヒュームの一歩先を行っていたわけです。

さて、「高校生におすすめの3冊」として、鶴見良行『バナナと日本人』*4小田実『何でも見てやろう』*5と『地球の歩き方*6が挙げられている。『地球の歩き方』を巡って;

(前略)『地球の歩き方』は実は明治大学のOBがつくったんです。社内での否定的な意見も多かったと聞いていますが、それでもバックパックを背負い、自分で実地調査をしたんです。それがいまや旅行者の必需品ですよ。この国にはこんなものがあったんだと驚き、いつか自分も行ってみようと思う本です。(後略)
そうだったんだ!
バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ (岩波新書)

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