連続隠喩

承前*1

佐藤信夫「隠喩と諷喩の書物」(in 『叢書 文化の現在10 書物―世界の隠喩』*3岩波書店、pp.91-137、1981)


「連続的にもちいられた隠喩の一系列」としての「諷喩」を巡って。


隠喩にきわめて近い表現形式に、「諷喩」がある。ギリシアのアルレーゴリア*2(別の話をすること)からはるばる伝わってきた、アレゴリーである。これについてもいくつかのラテン語訳がこころみられたようだが、どれも標準化せず、けっきょくアルレーゴリアのままラテン化され、そして近代諸言語へ持ち込まれた。
そのアレゴリーの訳語として「諷喩」ということばを割りあてたのは、隠喩のばあいと同様、坪内雄蔵らしい。それ以前は黒岩大のもちいていた(たぶん『荘子』からの借用であろう) 「寓言」という訳のほうがむしろ龍つ仕掛けていたが、のちには、だいたい「諷喩」に落ちついたようである。(p.118)
 
美術史や図像学ではallegoryの訳語としては「寓意」がよく用いられているのでは?
佐藤のテクストに戻ると、次いで、夏目漱石彼岸過迄*3の一節が引用される(pp.118-119)――「私が見兼ねて要作さんいくら御金が儲かるたつて、さう働らいて身体を壊しちや何にもならないから、偶には骨休めをなさいよ、身体が資本ぢゃありませんかと申しますと、己等*4もさう思つてるんだが、夫から夫へと用が湧いてくるんで、傍から掬くひ出さないと、用が腐つちまふから仕方がないなんて笑つて取り合ひませんので」。

(前略)夫から夫へと用が《湧いてくる》とは、一個の目立たない隠喩である。たしかに用は発生するものだが、文字どおぶくぶくと水底から湧き出るわけではない。そのあとにつづけて私たちは、《掬くひ出す》、《腐つちまふ》という、おなじ意味系列に属する第二、第三の隠喩を読むことになる。
もちろん語り手は世間の用事の話をしているのだが、彼のことばはもっぱら、ぼうふらのような、というより、何やら発酵でもしているらしい液面にとめどなくあぶくのように浮かび出るものについて語っているのだ。ひっきりなしに発生し、手ばやく処理しないと・たちまち手おくれになってしまう用件という現実の系列と、湧き出て・掬い出さないと・腐ってしまうものにかんすることばの系列とが、平行している。
現実の連鎖がそっくり、別の(きわめて短いけれども)隠喩的ものがたりに移しかえられた。

ここで、伝統的なレトリックにおける隠喩の標準的な定義はたいてい単語の用法についての規定であったことを思い出しておこう。それは、文ではなく語にかかわる転移であった。いわば、隠喩することばも隠喩されるものごとも(メタフォリザンとメタフォリゼ…… などという奇怪なカタカナをうっかり書いてしまって、私は少々弱っているところだが)いずれも単語のサイズだったのである。
とすれば、一連の隠喩がつづけて発音され、それらが編み上げられて文章をかたちづくっているような、《編成された》隠喩がありうる以上、そういう言語表現を呼ぶために、
ほかの名前がほしくなる。それが諷喩=アレゴリーであった。(pp.119-120)