「冒瀆者」(メモ)

〈信〉について無駄口を叩いてしまったので*1、その序でにまたまたジャンケレヴィッチ『イロニーの精神』からの抜書き;


(前略)冒瀆者とは、悪意に対して免疫になるために、いわば瀆聖の奥底にまで行きつこうとする情熱家である。惚れているがゆえに情婦を打つように、冒瀆者は基督の十字架像を侮辱する。しかしいかにかれがそう気取ってもむだで、かれはアンチ・キリストにはならない。腕時計をとり出して、神を粉砕する前に神に一五分間の猶予を与える無神論者とはおそらく、ひそかに祈る絶望者であろう。パスカルは無信仰者のことをよく知っていたために、両極端は一致すること、無神論は無関心よりも信仰に近いことを知っていた*2ルクレティウスヴォルテールよりはずっと容易に改宗するだろう。なぜなら不条理博士たるイワン・ヒョードロヴィッチ・カラマーゾフのように、狂言的な否定はおそらく、矛盾的併存の一つの結果、あるいは宗教的欲求の偽装の一つにすぎず、その激しさが行き過ぎると無害になってしまうようなものなのである*3。冒瀆的言辞は血清のように作用し、発作を駆り立てるが、この発作なしには、永続的な和解はないのである。(p.145)
また、

(前略)ニーチェが道徳に喧嘩をふっかけたのも、かれがどうしようもないほどに道徳家だったからであり、かれが徳というものを大いに重視していたからである。かれが幻滅を味わった道徳家でなかったら、怨み重なる倫理学に、どうしてあれほどの憎しみや侮蔑を浴びせただろうか。多くの無政府主義者が国家や、社会や、祖国を拒否するのも、実はそれと同じ精神によってであり、抑圧された愛情によってではないだろうか。かれらの挑発的な無遠慮さは、おそらく、秩序の逆説的な表現形式にほかならないのだろう。(後略)(pp.145-146)

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120204/1328367486

*2:パスカル『パンセ』はhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080121/1200860042 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110627/1309194879 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110717/1310878095でも言及している。

パンセ (中公文庫)

パンセ (中公文庫)

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120128/1327683953

*3:ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟』はhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061226/1167151875 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081124/1227458917 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090621/1245586039で言及している。

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)