平行する物語/世界

承前*1

佐藤信夫「隠喩と諷喩の書物」(in 『叢書 文化の現在10 書物―世界の隠喩』岩波書店、pp.91-137、1981)


「せまい意味での隠喩が語のレベルで働くのに対して、諷喩はおもに文以上のレベルで作用する」。「諷喩とは言述(ディスクール)の隠喩である」(p.121)。


 「こえぬまは、よしのの山のさくら花 人づてにのみきゝわたる哉」(紀貫之
と、読んで、もしその前に「やまとに侍りける人につかはしける」という詞書がなかったなら、私たちは花が女であることにまるで気づきもしないだろう。「用が・湧いてくる」*2というように、常識的表現と隠喩的表現の接点に違和感があれば、それがきっかけとなって、私たち読者はそこから比喩的表現がはじまることを感じとる。しかし、この歌のように」言述全体が首尾一貫した諷喩となっているばあいには、それが諷喩であるという示唆がどこかで与えられないかぎり、読者はつい文字どおりに読み額面どおりに理解して、それでおしまいということになる。
完結した諷喩のことばは、どこにも違和感を発生させないから、長い短いは別として、独立したひとつの言述の世界をかたちづくる。その点で、語のレベルの隠喩とは根本的にことなると言うべきだろう。じっさいこの短歌は、ひたすら吉野の桜について詠まれたひとつの作品としても完成しているのだ。
完結した諷喩はひとつのものがたりとして自立する。それは、どれほど短くても、ほとんど書物である。もし書籍という物体のかたちに拘泥しないならば。
すなわち、諷喩とせまい意味での隠喩とのはなはだしい相違のひとつは、それが完結し自立した(ものがたりとしての)世界を存在させるという点にある。その相違は、言述と語の差から、直接に由来する。
ところで、諷喩が諷喩であるためには、その自立した言述の世界が、もうひとつの現実の世界と暗に対応しているのでなければならない。ことばによるものがたりと、ことばになっていない現実のものがたりという、二本のものがたりが平行して存在することになる。現実の《吉野の美しい女》の世界と、言述の「よしのの山のさくら花」の世界という、まったく異質のふたつの世界が、奇妙な対等な関係でむすばれる。肝心なことは、それらふたつの世界ないしものがたりのあいだにある対応のかたちである。
いま、ふたつの異質のものがたりを区別し、ことばづかいをむやみに混乱させないために、かりによしのの山のさくら花の言語化された世界を《諷喩の組織》と呼び、やまとに侍りける人の世界を《現実の組織》と呼ぶことにする。(pp.121-122)
しかし、

(前略)《現実の組織》のほうは、まだ、かならずしもじゅうぶんには組織化されていなかったものである。そこで事態をいっそう正確に言いかえるなら、《諷喩は、ホモロジーを設定することによって、みずからの組織を現実の世界へ転移する》のだ。反映と言ってもいい。
ここで、《現実》を、あらためて端的に《世界》(私たちを包括する本来の意味での《世界》)と呼びかえてみると、諷喩といういとなみのはらむ、さらに大きな意味が判明するかもしれない。
諷喩とは、まだ漠然としか把握されていない《世界》へ、理解可能な言述の組織を投影することによって、《世界》を理解可能なかたちに組織化するこころみではないか。
もちろん、諷喩的言述によるホモロジー設立以前には《世界》は混沌であった……という意味ではない。もともと、吉野の女とその女を思っている男の関係を含み込んだまま、《世界》はまことに悠々たる秩序をもっているだろう。それは、天変地異の偶然をも平気で呑みこんだまま、落ちつきはらっているような秩序である。諷喩は、少なくともその世界の一部分、一側面に、人間に理解しうるようなかたちで組織を反映させてみようという、いじらしい試行だと言ってもいい。
それは、辞書が供給してくれる既成の《類似の体系》を奇妙に利用した、一種のモデルによる認識である。
とすれば、それはすべての言述とおなじことなのではないか。いかにも、あらゆる言述はいくらか諷喩である。(pp.124-125)

未知のことがら、あるいは既知のものごとの未知の側面を名づける欲求をいだいたとき、私たちは(既存の意味の体制では――街で売っている模範的辞典では――用がたりない以上)しばしば隠喩にたよる。同様に、《世界》のなかに既成の知識の組織とはことなる構造を読みとる必要が生じたとき、すべての言述は多少とも諷喩的ものがたりとなるほかない。
前衛的な物理学その他の理論的書物がアレゴリーに満ちているのはいっこうに不思議ではない。(p.125)