「歴史」か「神話」か

菊地章太『儒教・仏教・道教*1から。


中国人にとって「世界」とは、礼にもとづく秩序がおこなわれるところである。理念としては、すべての人間がそこに包摂されると言うかもしれない。しかしそれはあくまで中華の光がおよぶところ、という限定のうえに成り立っている。空間は区切られている。
同じように時間も区切られたそれである。一族の系譜として、また王朝の年代記としてたどり得る歳月が彼らにとっての時間である。(p.65)

中国人にとって「歴史」とは、区切られた時間のなかでの人間の生の軌跡にほかならない。『史記』の冒頭に神話の王様がたくさん出てくるが、人間なみに出身地だの経歴だのがくわしく書いてある。とても神話の人物とは思えないほどである。そして『史記』のあとにつづく正史は、すべて時間を切りとった歴史、すなわち断代史である。王朝の歴史であり、為政者の歴史である。あるいはそこに生きた人々の歴史である。それは現実のなかで奮闘し、成功し、挫折した個々人の足跡である。列伝の生彩にとんでいることは、中国の歴史書の大きな特色であろう。
中国人はそういう「歴史」を持っている。
ところで、どんな民族も歴史という観念を成り立たせてきたわけではない。
古代のインド人は、私たちの霊魂は生まれては死に、死んではまた生まれると考えた。生きとし生けるものはそれをくりかえしていく。それは輪が廻るがごとくである。輪廻という。さらに、私たちをとりまく世界はもっと大きな自然のサイクルのなかにある。世界は生成し、存続し、崩壊し、、空虚になる。そしてふたたび世界は生成する。その無限のくりかえしのなかに世界はある。
生命といい世界といい、すべては始めもなければ終わりもない円のなかに終始する。時間は円環構造をなしている。現在がその円のどこにあるかを問うことは意味がない。過去の出来事との相対的なへだたりは定めがたい。かくしてインド人は歴史という観念をはぐくむことなく、具体的な歴史叙述に力を尽くしてこなかった。そのかわり彼らは無限の想像力を神話のなかに解き放ったのである。(pp.66-67)
ところで。かなり昔、白川静『中国の神話』*2を読みながら、


神話の歴史への吸収    中国
神話と歴史の癒着     日本
神話の歴史からの独立   希臘


というような図式を思いついたことがあるのだけど、さて?