菊地章太『儒教・仏教・道教』*1から。
「祝い」と「呪い」を巡って。
一般的な問題としての、blessingとcursingの両義性を巡っては、ジョフリー・ハートマンのSaving the Textをマークしておく*2。また、ある意味で根本的なツッコミ;
ところでこの「祝」と「呪」、意味は正反対でも、文字はもともと兄弟分である。
祝の示偏は、いけにえを載せて神をまつる台であり、祭壇をかたどっている。旁の「兄」は、ひざまずいて器をさし出す形象とされる。『説文』のような昔の書物には、口を上に向けて申しあげることとしてあるが、現在の文字学では、たまわったものを受ける器と解されている。「兄」の上半分がその入れ物である(この説にも批判がある)。
誰から何をたまわるのかというと、それは天から天の意向をたまわるのである。
紀元前五世紀ごろの史料にすでにこの字がある。天からたまわったものを言葉で発するのが「祝」であり、それを文字に記すのが「史」と呼ばれる役人であった。後者は歴史家の遠い祖先である。
「呪」の字は紀元前の史料からは今のところ見つかっていない。『説文』にも出てこない。これは「祝」から分かれた字と考えられている。だから「呪」は「祝」の弟分である。
祝にしても呪にしても、そこに天という第三者が介在するところに、中国の古い思想の特色がある。では天とは何かというと、これは中国思想の大問題になるが、ここではひとまず至高の道理をになう存在であると理解しておきたい。
それは人格神とはちがう。神様らしい顔は見えてこない。天は至高の道理、すなわち天理に照らして命令をくだす。祝福も呪詛もいずれも天の意向、すなわち天命によってもたらされる。
だから、呪いといっても、誰かの怨念が電波のようにじかに相手に伝わって危害をおよぼすわけではない。天に向かって祈った結果、天がその祈りを受けいれ、相手に祝福を、もしくは呪詛をくだすという仕組みである。(pp.85-87)
ただ、この考え方にはなんだかヘンなところがないでもない。呪詛される側の行為がたしかに非道なものであるなら、わざわざ要請がなくて天罰がくだったらよさそうなものだ。「天網恢恢疎にして漏らさず」とは言うけれど、これでは網の目もずいぶん粗くないか。(p.87)
*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/10/15/102000 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/11/10/144736 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/11/23/145424 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/11/30/145135
*2:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20071025/1193332927 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20100221/1266732813