「純粋」と「雑然」

菊地章太『儒教・仏教・道教*1から。


さて、夾雑物を捨てて純粋なものにすればどうなるか。いつしか先細りしてしまうこともめずらしくない。
カトリック教会はユダヤキリスト教がヨーロッパの古代文化と出会って成立した。そのうえに長い歴史のなかでさまざまな伝承や習慣も許容していった。なかには聖書に書いていないこともたくさんある。プロテスタントはそういうカトリックのありかたに抗議した。
聖書にもどれ、聖書にないことは排除すべし。
そうして彼らは起源にもどろうとした。純粋であろうとしたのである。
プロテスタントは純粋を追求するあまり妥協をゆるさず、枝分かれしつづけて今やどれほど分化したかわからないまでになった。フォークロアも捨て、メルヘンも捨ててしまった。原理主義になればなるほどスマートにはなるかもしれないが、とがってくる。
純粋であることは狭いことでもある。
カトリック教会のなかにも純粋をめざす動きはもちろんある。それでも雑然を許容する面をあいかわらず同居させている。だからいつもプロテスタントに攻撃されるのだ。しかし信徒数は増えつづけていく。今や全世界で十三億を超えている。(pp.14-15)
プロテスタンティズムによる「純粋」の逆説で最大のものは、かつてピーター・バーガーが『聖なる天蓋』*2で考察したように、その副産物として、神聖でも何でもない「純粋」な世俗が出現してしまったということだろう。また、「カトリック」と「プロテスタント」は基督教史に限定される概念ではない(See eg. Ernest Gellner ”A pendulum swing theory of Islam” reprinted in Roland Robertson ed. Sociology of Religion*3