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『鎌倉殿の13人』*1の最終回だけど、「承久の乱*2の描き方がちょっとあっさりしていたなと思ったのは私だけだろうか。まあ、「乱」をそんなに詳しく描いていたら、クライマックスである北条義時の最期を描く時間がなくなってしまうという事情があったのだろうけど。
さて、『神戸新聞』の記事;



承久の乱」発端、関東由来の名字が「大移動」 鎌倉幕府と朝廷が激突、兵庫にはどのような影響?
12/16(金) 11:30配信

神戸新聞NEXT



 兵庫県の三木・吉川の藤田さん、丹波の久下(くげ)さん、そして丹波篠山の中沢さん、酒井さん。それぞれの地域に多いことで知られるこれらの名字、広まるきっかけは承久(じょうきゅう)の乱(1221年)にあったという。鎌倉幕府と朝廷の覇権争いに端を発し、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも取り上げられたこの戦い。はるか昔、兵庫から遠く離れた場所で起こった出来事がどのように影響したのだろうか。(篠原拓真)


 承久の乱は、後鳥羽上皇鎌倉幕府執権の北条義時に対し、討伐の兵を挙げたことに始まる。源頼朝の妻北条政子の演説が関東の武士たちを結束させ、幕府側が圧勝した。

 姓氏研究家の森岡浩さんは、「歴史上で何度か名字が移動する時期はあるが、承久の乱は現在に影響を残すほどの大移動だった」と説明する。

 幕府は朝廷方の所領約3千カ所を没収し、功績のあった武士らを土地の管理者「地頭」に任命。西日本を中心に土地を与えた。これが関東由来の名字拡大につながった。

 森岡さんによると、当初は土地を移る武士は少なかったが、モンゴル帝国による元寇(げんこう)(1274、81年)の頃、幕府は守りを固めるため、武士たちに西日本へ移るよう命じた。

 一部の武士は赴いた先で有力豪族となった。駿河静岡県)から安芸(広島県)に移った吉川家は、その後藩主に。相模(神奈川県)から豊後(大分県)に赴任した大友氏は戦国大名としても知られる。

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 では、兵庫県内にはどのような影響が残ったのか。

 三木市吉川町。町内最多の名字として知られているのが「藤田」だ。起源は武蔵国藤田郷(現在の埼玉県寄居町)とされる。郷土史家の藤田均さん(70)=三木市吉川町=によると、同町周辺は天皇家の荘園があり、藤田氏に与えられた。

 同乱では北条義時の息子泰時が京都に攻め入った際、後鳥羽上皇が発した降伏の院宣を藤田能国(よしくに)が読み上げたとされる。これらの功績を受け、藤田氏の一部が吉川町周辺に移ったとみられ、県指定文化財「法光寺文書」でも移住を裏付ける書状が確認できるという。

 藤田氏はその後滅ぶが、「藤田率」3割7分を誇る同町内の奥谷地区では、明治時代に名字を決める際、寺の住職が藤田氏の偉功にあやかって名字を「藤田」にすることを勧めた-という逸話が残っている。

 また、森岡さんは「丹波市の久下氏や丹波篠山市の酒井氏らも、承久の乱後に地頭として移ってきた」と紹介する。久下氏は武蔵国久下郷(埼玉県熊谷市)の武士で、同乱の後、現在の丹波市山南町の一地域にとどまった。また、武蔵国中沢郷(同県本庄市)を拠点とした中沢氏は現在の丹波篠山市大山地区に、酒井氏も関東から丹波篠山市古市地区などに移り、ともに名字が分布する。

 このほか、「鎌倉殿の13人」に登場する足立遠元(とおもと)の孫遠政(とおまさ)は、承久の乱が起こる前とされるが、武蔵国足立郡(東京都足立区など)から現在の丹波市青垣町に地頭として赴任。関係が深い同町遠阪地区は「6割が足立姓」とも伝わる。

 11日の放送で、三浦義村とともに登場した御家人の長沼宗政は、摂津国淡路国の守護などに任命されるなど、兵庫県と坂東武者との関係は他にも。森岡氏は「名字には、先祖がどこでどういう暮らしをしていたかが込められている。名字のルーツから一族の過去に思いをはせてほしい」と話した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1826482bfc99fcfd7ddec5ed6d49fa5c52156fa2

鎌倉時代に東国から西国に移った一族ということで真っ先に思い出すのは、大江広元の子孫である毛利氏*3だな。「毛利季光」について、Wikipediaからコピペしておく;

3代将軍・源実朝に仕え、鶴岡八幡社参行列では前駆に加わった。実朝の死後出家し、入道西阿と称した。

承久3年(1221年)、承久の乱が起こると、北条泰時に従って後鳥羽上皇と呼応する勢力と戦い、美濃国木曽川の突破戦や、山城国宇治川・淀川の突破戦で武名をあげた。この功によって安芸国吉田荘の地頭職を与えられた。

天福元年(1233年)には時の執権泰時から関東評定衆に任命される。寛元4年(1246年)には、藤原頼経・頼嗣父子を自邸に迎え、当時将軍職を継承したばかりの頼嗣の甲冑着初式を行うという栄誉を得る。

宝治元年(1247年)、北条氏執権派と対立した妻の実家三浦氏方に付き敗北(宝治合戦)。鎌倉法華堂で息子の広光・光正・泰光・師雄らと共に自刃した。合戦の直前、季光は将軍御所に向かおうとしたが、妻の「兄泰村を見捨てることは、武士のすることではない」との言葉で三浦陣営に付いたという。毛利一族はこれによって大半が果ててしまったが、越後国にいた四男の経光の家系だけが唯一残ったとされ、この経光の子孫から戦国時代に吉田荘の国人領主から一躍西国の覇者となる毛利元就が出る。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1826482bfc99fcfd7ddec5ed6d49fa5c52156fa2

また、「鮫島」というのは薩摩特有の苗字だけど、実は遠江起源だということを聞いたことがある。実際、静岡県磐田市には「鮫島」という地名がある*4。「鮫島」を名乗る人たちが薩摩に定着したのは何時頃のことなのだろうか?