千葉県鴨川市太海の「仁右衛門島」という島の地主、平野仁右衛門の先祖は逃れてきた源頼朝を島の洞窟に匿ったという伝説がある。ただし、この平野家は江戸時代初期に安房の地に和泉国から移住してきたという話もあるということを、ちょっと前に記した*1。その後、ちょっとして思ったのは、そそもそも「仁右衛門」というのが比較的新しい命名法なんじゃないかということだ。「仁右衛門」という名前から真っ先に連想される時代は江戸時代であって、平安末期(源平時代)ではない。『鎌倉殿の13人』*2には、~右衛門とか~左衛門と呼ばれる人物は全く登場していない筈。石川五右衛門より古い「右衛門」はちょっと知らないな、と思ったのだ。
大藤修『日本人の姓・苗字・名前』では、以下のように述べられいている。
律令制の官職名にちなむ通称は最も多くみられ、近世には武家のみならず庶民においても一般化した。在京の官職名は「官途名」、国司名は「受領名」と区別され、後者を含めて「 官途名」と言うこともある(本書では官職名に統一する)。忠臣蔵で有名な赤穂浪士の首領、「大石内蔵助良雄」*3の内蔵助は通称で、中務省内蔵寮の次官の職にちなむ。良雄は実名である。
武士は、「……右衛門」「……左衛門」とか、「……兵衛」とかいう通称を名乗っている者が多いが、これは武官として左右衛門府、左右兵衛府に勤務したり、その武官職を買ったりして通称としたのが始まりで、やがて勤務や買官の実態がなくても、それを通称として名乗るようになったからである。正式には「……右衛門尉」というふうに、四等級からなる官職の等級も付すのであるが、近世には(略)正式に官位に叙任されていない者が官職名を名乗ることは規制されたので*4、等級部分を省いて通称とするようになった、近世の宗門人別改帳をみると、庶民でも成年男性の多くは同様の名前である。
中世後期には村落にも官職名が普及した〔坂田聡―二〇〇〇・〇六、薗部寿樹―二〇〇二*5〕。「……右(左)衛門」という近世に一般化する名前は、一五世紀に急増している〔坂田聡―二〇〇〇・〇六〕。官職名は本来、宮座という村の鎮守の祭祀組織における「官途成」の儀礼を経て名乗るものであったが、しだいにその儀礼をせずに僭称(上の身分の称号を勝手に自称)する者が増加した〔薗部寿樹―二〇〇二〕。その結果、近世には庶民においても、官職名が一般化するところとなったのであろう。
「右(左)衛門」や「兵衛」は姓、嘉字や排行などと組み合わされているのが通例である。「平右衛門」「源左衛門」「藤兵衛」「吉右衛門」「喜左衛門」「善兵衛」「太郎左衛門」「次郎右衛門」「三郎兵衛」といった類である。(pp.88-89)
*1:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/10/02/174125
*2:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/08/28/145046 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/01/11/134226 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/08/30/151233 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/08/31/014432 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/09/02/103641 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2022/09/03/160501
*3:See also https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20071017/1192588766 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130327/1364351364 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130330/1364618005 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130331/1364697890 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20130402/1364871462 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/03/28/033835 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/05/07/095256
*5:坂田聡「中世百姓の人名と村社会」『中央大学文学部紀要 史学科』45、2000 坂田聡『苗字と名前の歴史』 吉川弘文館、2006 薗部寿樹『日本中世村落内身分の研究』校倉書房、2002