貞暁

野口実氏のツィート;


「与えられた寿命を全うした」とは言っても、享年は45歳*1。まあ、兄弟たる頼家や実朝よりは長生きしたけど。

一乗谷かおり「恩讐の彼方――。弟時房と上洛した北条政子が密かに対面した頼朝実子の貞暁」https://news.yahoo.co.jp/articles/e4adb68d4d28e91dc643a8b920234a7fed7b68ca


丹生都比売神社における北条政子*2と貞暁との対面。政子は建保6年(1218年)に上洛した際、熊野詣を行い、さらに高野山に向かっていた。


そして、政子は密かに高野山を訪れ、ある人物と対面していた。

その人の名は、貞暁(じょうぎょう)。亡き頼朝の忘れ形見の男子で、齢7歳で京の仁和寺に入室した人物である。頼朝、政子の次女である三幡と同じ文治2年(1186)に誕生した貞暁はこの時32歳。修行先を仁和寺から高野山へと変えた後も、初代鎌倉殿頼朝所生の男子として一目置かれる存在だった。

当時の高野山は、女人禁制であったため、政子が訪れたのは、高野山への道中にある丹生都比売(にゅうつひめ)神社だ。

頼朝と御所の侍女との間に生まれた貞暁のことを政子が徹底的に忌み嫌っていたことは、以前に記事にまとめた。鎌倉殿頼朝の男子(出生の段階では次男)として生まれながら、政子を憚って誕生を祝う儀式も行なわれず、本来であれば有力御家人が乳母になってもおかしくない立場でありながら、7歳で京に行くまで政子の目に触れないよう、爪に火をともすように生きてきた男子である。


高野山に残る伝承では、政子は貞暁に将軍職を継ぐ気がないか尋ねたという。貞暁の答えは、「否」。真偽のほどは定かではないものの、政子とのやり取りの中で、短刀で自らの眼球を潰したという話も伝わる。

貞暁にしてみれば、今さら、権力闘争の末に頼家や阿野全成や多くの御家人が誅殺される魑魅魍魎の鎌倉などに戻りたくはなかっただろう。

その後;

政子が、貞暁と対面した翌年、実朝が甥の公暁に暗殺される。そして、承久の乱を経た貞応2年(1223)、政子の援助もあったのか、貞暁は、院主を務める一心院に寂静院という一院を建立する。『帝王編年記』によると阿弥陀三尊を本尊とし、その胎内には父頼朝の鬢髪を納めたのだという。あるいは、貞暁との対面の際に政子が持参したものであろうか。

実朝が亡くなった後は、初代鎌倉殿頼朝を父とする唯一の男子となった貞暁。「鎌倉法印」あるいは「高野法印」と称されて、いっそう崇敬を集めたという。その貞暁が亡くなったのは、寛喜3年(1231)。すでに北条義時北条政子は鬼籍に入り、恩讐の地鎌倉は、第三代執権北条泰時の時代になっていた。

さて、貞暁の母親、大進局の父親(彼にとっては外祖父)である常陸藤原時長というのは、後の仙台藩の伊達家の始祖といわれているのか*3