承前*1
近藤成一「中世日本王権的分裂與統合」(徐洪興、小島毅、陶徳民、呉震(主編)『東亜的王権與政治思想――儒学文化研究的回顧與展望』*2復旦大学出版社、2009、pp.37-49)
近藤論文の第二節「関於承久之乱」(pp.41-42)。
河内祥輔の「承久の乱」に関する所説が検討される。曰く、
朝廷による幕府改革運動か幕府による朝廷改革運動か。近藤氏によれば、後鳥羽側挙兵の際の院宣に「守護地頭体制」を否定する文言はない(ibid.)。なお、河内氏は「皇子将軍計劃」に関しては、上横手雅敬*3の所説に従っているという(ibid.)。
河内認為、後鳥羽併没有否定幕府存在的意図、其用意是以皇子将軍更迭摂家将軍、将幕府移至京都、置於自己的身傍:與此相対、幕府則以廃除“悪王”後鳥羽、擁立“正統”守貞(後高倉院、1179―1223)的計劃対抗。即所謂的承久之乱、是針対後鳥羽的重建幕府運動、幕府以重建朝廷運動進行対抗、並以後者的勝利而告終的事件。(p.41)
佐藤進一(『日本の中世国家』)の異論。皇族を将軍に迎えるという意見は、源頼朝の挙兵以来常に幕府内に存在していた。その目的は皇族を担ぐことによって幕府の朝廷からの相対的独立を確保することである。佐藤は、『愚管抄』に依拠して、後鳥羽院は「皇子将軍」に東西分裂の危険を感じ取っていたために、北条政子からのオファーを拒絶したという(pp.41-42)。
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河内認為幕府以重建朝廷運動対抗朝廷的重建幕府運動。但是、無法想象幕府在被動地対抗来自朝廷的攻撃的同時、自身還有余暇積極地推進重建朝廷運動。幕府不是為了重建朝廷而戦闘的、只是在看到勝利的前景時、才開始意識到如何処理戦後這個課題。其時、可以説“重建朝廷精神”作為解決課題的方針、発揮了作用。所謂的“重建朝廷運動”或“重建幕府運動”、與其説其自身成為事件的起因、不如説事件発生後、為了終結事件、恢復和平而発揮作用。(ibid.)。