わだつみの声聞いた?

承前*1

一乗谷かおり*2承久の乱で敗退、そして隠岐流罪後鳥羽上皇が詠んだ望郷の和歌が胸に迫る【鎌倉殿の13人 満喫リポート】後鳥羽上皇 隠岐流罪編」https://news.yahoo.co.jp/articles/246c01757b37a75d6af21aec8beb3cdf1ad9cef0


隠岐に配流された後鳥羽院について。
ところで、隠岐後鳥羽院といえば、上のテクストでも引用されている


我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け
だろう。「隠岐の海の荒き波風」を管轄しているのは海神(わだつみ)。後鳥羽院は新たに海神と対峙しようとしている。(アマテラスの末裔としての)皇室は神話的準位において、海神(わだつみ)と様々な確執を経てきたのだった。
もちろん、戦没学徒兵手記集とは全く関係ない。

藤井勝彦「「承久の乱」の終幕と後鳥羽上皇らの処遇」https://news.yahoo.co.jp/articles/69fe6ee7245b49c1aaeefd3ae3b1f2f56150e6f8


この中の、


乱の首謀者の一人として捕らえられた藤原範茂を鎌倉へ護送するという役割を担ったのが、北条義時の子・朝時であった。足柄山に差し掛かった際、範茂が「斬首されて五体満足でないと極楽往生できない」として入水を希望。朝時がその願いに応えて、麓を流れる清川に入水させたのである。範茂の着物の袂や懐に石を詰め込んで川に沈んだという(7月18日)。この時に範茂が詠んだという「思いきや 苔の下水せきとめて 月ならむ身の やどるべきとは」との辞世の句が哀れである。
という一節。こういう心性が存在したんだと軽く驚くとともに、日本人が仏教を受容してから1000年余りは火葬というのは定着しなかったんだなということも思い出した。因みに、最近、日本において火葬がなかなか定着しなかったということ自体が忘却されつつあるということを知った。