三井寺の末寺?

『鎌倉殿の13人』*1源実朝の生命は今週中はまだ保たれていることになった。
実朝は甥、つまり兄頼家の息子である公暁によって殺されるわけだけど、この『鎌倉殿の13人』では、その公暁がこれまで慣れ親しまれてきたクギョウではなく、歴史研究の成果を踏まえて、コウギョウと呼ばれている。
さて、コウギョウ=クギョウは近江坂本の園城寺三井寺)で公胤阿闍梨の弟子として修行した後、鎌倉に戻り、鶴岡八幡宮*2別当となっている。因みに、この時代、鶴岡八幡宮は神社ではなく寺であった。鶴岡八幡宮園城寺の末寺ということになる。とすれば、公暁の運命を巡っては気になる人物がいる。慈円僧正*3である。慈円比叡山(山門)のトップたる天台座主を幾度も務めた。比叡山延暦寺園城寺は同じ天台宗でありながら常に戦争状態が続いており、第二次世界大戦後には、円城寺は天台寺門宗として天台宗から分離独立してしまう。慈円から見れば、公暁というのは何よりも先ず敵対勢力の幹部だったわけだ。このことが当時の政局にどんな営業を及ぼしたのかは知らない。ただ、その後の日本史においても山門と寺門の対立が重要な要素になっていると思われることは多い。例えば、比叡山南朝後醍醐天皇一派)に肩入れする一方で、園城寺の方は北朝(足利)に加担した。織田信長比叡山を焼き討ちしたときに織田方の拠点となったのはほかならぬ園城寺だった。


舘隆志「公暁の読み方について」https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20220401-001.html


曰く、


公暁は公胤の「公」が系字として用いられた僧名である。伝統的に、曹洞宗や浄土宗では公胤を「こういん」と読んできた。そのため、公暁も「くぎょう」とは読まないのではないかと考えたのである。そして、江戸時代の史料で「こうげう」と読まれていた例があったため、「くぎょう」という発音を踏まえ、直感的に「こうぎょう」と読むのではないかと考えた[舘2006]*4。また、「園城寺公胤の研究」と題して博士論文を執筆し、出版に際しても「こうぎょう」の読み方を記した[舘2010]*5

僧侶の名前を、法名とか僧名とか戒名などという(以下、僧名で統一)。この僧名は基本的には漢字2文字で構成されていて、読み方は音読みすることが基本である。漢字の音読みには、呉音、漢音、唐音などがあり、呉音のみで読むとか、漢音のみで読むなど口伝による読み方の伝承が宗派ごとにあったりする。

しかし、実際にはそう単純な話ではない。たとえば、伝承され続けている発音、栄西を「えいさい」、道元を「どうげん」と読むのは呉音漢音混在した読み方である。このような読み方が鎌倉時代としておかしいのかといえばそうとは言えない。親鸞の『西方指南抄』には大勢の僧名が記され、そこに親鸞自身が読み仮名を付しているが、呉音読み、漢音読みのほか、呉音漢音混在読みも含まれていた[舘2014]*6。また、伝統宗派では、宗派ごとに高僧の僧名の読みとして伝承された発音があり、それが当時の史料にも記されていることもある。しかしながら、そのような事例は希有であり、僧侶の読み方の確定は非常に難しいのである。このように、当時の僧侶の読み方を調べた上で、果たして公暁の読みは本当に「こうぎょう」と読むのかという点を再び調査したのである[舘2012]*7

公暁の読みを確定させる方法として、まず考えたのが、「公顕―公胤―公暁」という系譜である。公顕は大僧正、公胤は正僧正にまでなった、それぞれがその時代を代表するような僧侶であり、公暁はその系字を受け継いでいることになる。公暁は、鎌倉とも強い関係がある当時の園城寺の中心的な系譜に属し、園城寺に所属する僧侶として鶴岡八幡宮別当になった。京都東山の如意寺(廃寺)という園城寺末の山岳寺院の寺務職にもなっていたようで、『華頂要略』には「如意寺寺務職」を勤めた僧侶として「公暁禅師」とあり、禅定に優れた僧侶の呼称が記されている。ただし、事件を起こした鶴岡八幡宮寺の『鶴岡八幡宮寺社務職次第』では「悪別当」の俗称が伝えられ対照的である。

公顕と公胤はそれぞれコウケン、コウインと同時代的に呼ばれていた。

鎌倉期成立の『承久記』の写本のうち、前田尊経閣文庫所蔵『承久記』に「若宮乃別当公暁」の右に「べつたうこうせう」とあるが、そのもととなったとされる元和4(1618)年古活字版『承久記』(流布本)には読みは記されていない。『承久記』の異本のうち、天明2(1782)年書写の東京大学付属図書館所蔵『承久兵乱記』には「こうきょう」その右に「公暁」とある。また『承久軍物語』(群書類従所収本)には「こうげう」とあるが、『承久軍物語』の草稿本と考えられる内閣文庫所蔵本には、公暁「こうけう」と公卿「くぎゃう」とあり、濁点の有無が分けられている。

鎌倉時代成立の『吾妻鏡』には公暁の記事があるが、古写本には読みが記されておらず、刊本の寛永3(1626)年版において公暁に「クゲウ」とある。

南北朝成立の『増鏡』の刊本や写本にも「公暁」の読みが見られ、学習院大学所蔵本(1521年奥書)では「公」に読み方はなく「暁」に「きやう」とある。この他、慶長元和古活字版は「公暁」に「きんあきら」と訓読みである。しかも、いくつかの江戸期の写本を確認すると「くぎょう」「こうけう」「こうせう」「きんあきら」とあり定まっていない。

室町時代成立の『太平記』は、江戸期以前の古写本として西源院本(東京大学史料編纂所所蔵影写本)に「公暁」に「コウギョウ」とある。慶長15(1610)年版・延宝8(1680)年版が「公暁」に「クゲウ」、寛永元(1624)年版は「こうきょう」、寛永8(1631)年版と元禄11(1698)年版が「公暁」に「コウゲウ」とある。

上記を踏まえるならば、公暁の発音は伝承されていなかったのではないかと推定できる。そのため、「公顕―公胤―公暁」という系譜の漢音の読み方を踏まえ、「こうきょう」の漢音読みを基本とし、または「こうぎょう」と理解するのが自然と考えた。このような経緯から、自身の説にもかかわらず「こうきょう」と「こうぎょう」の2説が生じたのである。